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NO.303
東京都千代田区丸の内・大手町の特徴
東京都千代田区「丸の内・大手町」の特徴とマンション

江戸城・二重橋前と大手門に面する東京超都心のA級ビジネス街

 江戸時代、丸の内界隈は、江戸城の内堀と外堀に囲まれたエリアであった。大手町は江戸城城郭の正門である大手門前を指す名称で、云うまでもなく大手門が町名の由来となっている。丸の内・大手町エリアは、諸大名の屋敷が立ち並んでいた。

江戸城の内堀と外堀に囲まれた丸の内

 江戸時代の丸の内は、江戸城の内堀と外堀に囲まれた、堀で囲まれた内という意味で、諸藩の藩邸が立ち並んでいた。明治になって大名屋敷が取り払われ、周辺は一気に寂れる。屋敷跡地が軍の施設になり、街としての機能・開発が行なわれず、その様子を明治の文学者・田山花袋は、1887年(明治20年)に、丸の内付近を次のように著している。
 「丸の内は、いやに陰気で、さびしい、荒涼とした、むしろ衰退した気分が満ちわたっていて、宮城も奥深く雲の中に鎖されているように思われた」『東京の三十年』

 この丸の内一帯が大きく変貌するのは1890年(明治23年)、明治政府が陸軍地だった一帯を三菱財閥に払い下げてからだ。以後、三菱は大規模な開発に乗り出し、霞ヶ関などの官庁街に隣接した先進国に負けないビジネスのための街を建設した。当時「三菱ケ原」と呼ばれていた荒れた土地だった丸の内に、1894年(明治27年)に日本で最初の近代的オフィスビル「三菱一号館」を完成させた。さらに1923年(大正12年)、「丸ビル」が落成する。地域内の道路整備を行なったうえで、次々と洋風の建築物を建てる。赤レンガの建築物を中心としたそれらの建物が、ロンドンの景観を思わせたことから、一帯は「一丁倫敦(ロンドン)」ともてはやされるようになった。

 さらに、1914年(大正3年)には東京駅も完成。第一次世界大戦による空前の好景気が追い風となり、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長した。そんな歴史をもったこの界隈が、正式に「まるのうち」と呼ばれるようになったのは1929年(昭和4年)、丸ノ内1丁目~3丁目という町名が誕生してから。そして、1970年(昭和45年)、町名表記が丸ノ内から丸の内と変更され、現在に至っている。

 現在、その立地の良さから国内メガバンク本店や商社など大企業本社などが集積。日本経済の中心地となる。千代田区・丸の内に本社拠点を置く企業は、やはり三菱系が多く、簡単に触れると三菱商事、三菱UFJフィナンシャル、東京海上HD、三菱電機、日本郵船、三井住友フィナンシャル、古河電気工業など、そうそうたる企業が並ぶ。
一方で、丸の内3丁目など2018年4月現在、居住する住民がゼロの街区、つまり住民がゼロの町内が存在する。

江戸城城郭の正門である大手門前を指す大手町

 一般的に東京千代田区・大手町は、江戸城城郭の正門である大手門前を指す名称で、云うまでもなく大手門が町名の由来だ。
 江戸期以前、この辺りは平川の河口部分、神田山の尾根の先に当たり、芝崎村と呼ばれていた。1950年、徳川家康の関東移封後に日比谷入り江が埋め立てられ大手前と呼ばれるようになった。江戸時代には隣接する丸の内と同様に大名屋敷が建ち並び、姫路藩、福井藩、小倉藩などの藩邸が連なっていた。

 明治維新後、武家屋敷は取り壊されて、政府関連機関の内務省や大蔵省、文部省などが置かれた官庁街となった。第二次大戦後、分散していた中央官庁を霞が関に集中させる都市計画が1952年に決定され省庁ビルが移転、残った敷地は民間に払い下げられた。その後の1960年代の高度経済成長に伴うオフィスビル建設ラッシュにより官庁街は丸の内エリアとともに日本を代表する高度A級ビジネス街へと変貌を遂げた。

 概ね町名としての大手町は、東京メトロ丸の内線・東西線・千代田線・半蔵門線、そして都営地下鉄三田線の5線が乗り入れる地下鉄一大ターミナル駅「大手町駅」を中心とするエリアである。前述した南に隣接する丸の内とともに日本経済の中心地として、政府系金融機関や大手銀行本支店、総合商社、日本経済新聞社、産経新聞社、読売新聞社の大手マスコミ本社などが集積する。

 近年、大手町エリアのオフィスビルは老朽化などが見られ、IT&AIに対応した再開発が盛んに進められる。これまで、この地域は皇居前であり、建築基準によって建造物の高さに厳しい制限があった。しかし、それも緩和され、丸の内エリアの高度再開発と連動し、東京サンケイビルをはじめとした高層オフィスビルが建つようになった。

 超高層ビルへと建て替える再開発が立て続けに進み、大手町合同庁舎の跡地に玉突き式でビルを建て替える「連鎖型都市再生プロジェクト」により経団連会館、大手町フィナンシャルシティ、大手町プレイスなどの超高層ビルが建設された。また、三菱地所は2027年の竣工を目標に、地上300mの「あべのハルカス」を超える、国内最高の高さを誇る390mの超高層ビルを常盤橋地区に建設する計画を発表した。

 こうした街の特性から昼間人口と夜間人口の差が極端であり、オフィス街には住居がほとんど無く、2018年4月現在、大手町2丁目は居住する住民がゼロの街区、つまり住民がゼロの町である。一方、昼間人口は約72000人となっている。

渋沢栄一ゆかりの深谷産の赤煉瓦で築いた東京駅

 丸の内、大手町エリアを語るうえで触れなければいけないのが東京の玄関、東京駅だろう。東京駅は千代田区丸の内1丁目にある東京の中央駅に相当する鉄道駅で、1914年(大正3年)に開業した。東海道新幹線・東北新幹線、東海道本線・総武・東北・中央本線などの起点駅であり、現在JR東日本、JR東海のほか東京メトロ丸の内線が乗り入れる。
 赤煉瓦造りの駅舎は、東京帝国大学工学科教授だった辰野金吾の設計で、大正初期の代表的建築物であった。
 日本の鉄道建設を指導していたドイツ人技術者フランツ・バルツェーより駅の位置や規模、構内の配置が決められた。駅舎は丸の内側に建てられ、皇居正面と対峙することになり、国家の象徴的な位置付けとして建設された。
 第二次大戦の東京大空襲で壁体を残して焼失、戦後、大幅に改修された。2003年に重要文化財に指定された。2011年には、JR東日本による500億円を要した復元作業が終了した。

 ところで、東京駅建設に使われた煉瓦は、日本の資本主義の父とされる渋沢栄一と深い関係があるのをご存じだろうか。2021年のNHK大河ドラマの主人公となる予定の渋沢栄一は、若き日に渡欧を果たし、欧州各国の進んだ思想・文化・社会などを目の当たりにし、大きな影響を受け1868年(明治元年)に帰国する。
 大隈重信らの説得に応え明治新政府の大蔵省に入省するも、大久保利通らと財政運営で意見が合わず辞職。以後は民間実業界の最高指導者として活躍した。

 その渋沢栄一が1887年(明治20年)、埼玉県深谷にドイツ人技師チーゼを招いてつくった日本煉瓦製造会社の赤煉瓦が東京駅建設に使われたのだ。日本煉瓦製造会社の工場は、ホフマン輪窯6号窯、旧事務所、旧変電室、備前渠鉄橋が国の重要文化財に指定されている。
 日本煉瓦製造会社でつくられた煉瓦は、明治時代の代表的な煉瓦建築、東京駅のほか、司法省(現法務省)・日本銀行・旧東京裁判所・赤坂離宮・旧警視庁・旧三菱第2号館・東京大学などに使われた。
 明治期の日本の最高水準の技術で建設された街が東京「丸の内・大手町」なのだ。

  • 著者:吉田 恒道
  • (公開日:2020.05.19)

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