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- 東京都千代田区御茶ノ水の特徴
多彩な文教エリアで日本のカルチェ・ラタン、世界一の古書店街でB級グルメの街
現在、このエリアの地域名は、「お茶の水」「御茶の水」ふたつの表記が施設毎に使用される。この項では、おおむね神田川の南域、文京区側を除いた神田駿河台を中心とした一帯について触れる。付近は江戸時代、一帯が武家屋敷街だった。
江戸時代以前、北側の本郷台と南側の駿河台がひと続きで「神田山」と呼ばれていたが、二代将軍・徳川秀忠の時代に開削した外濠の北にあった高林寺から泉が湧いて、この水を将軍のお茶用の水として献上したことで、このエリア一帯が御茶ノ水と呼ばれるようになったといわれる。
現在、地区内には明治大学駿河台キャンパス、日本大学理工学部・歯学部、中央大学記念館などの大学のほか、アテネ・フランセや駿台予備校など多彩な教育機関が集中する国内最大の学生街だ。また、国内最大の古書店街、楽器店街、スポーツ用品店街のほか、伝統ある江戸前蕎麦店や古式溢れる喫茶店など多くの食通を惹き付けるB級グルメの店や老舗名店などが残る広範なカルチャーゾーンとなっている。
「御茶ノ水駅」
御茶ノ水の名を冠した「御茶ノ水駅」は、神田川の南側にJR東日本・中央線&総武線の駅があり、神田川の北に東京メトロ・丸の内線の駅がある。
現在の中央本線は甲武鉄道会社が1989年(明治22年)から順次開通して新宿~八王子間が完成。その後、甲武鉄道は東京都心への路線延長を図り、1895年(明治28年)4月3日に飯田橋駅までの運転で開通した。さらに甲武鉄道は、列車運転本数の増加を図るとともに、蒸気機関車の運転による音や煤煙の公害を軽減する目的もあって、電化を図り電車の運転を開始し、路線の都心方面への延長を行なった。
こうして1904年(明治37年)12月、飯田町から御茶ノ水までの路線が電化されて開通し、御茶ノ水駅が開業した。当時、御茶ノ水~中野間で1日28往復、新宿までは10分間隔の運転であったという。当初の御茶ノ水駅は現在地よりも新宿寄りの御茶ノ水橋の反対側にあった。現在、当時の駅舎跡地には神田警察・お茶の水交番が所在する。
1906年(明治39年)10月、鉄道国有法により甲武鉄道は国有化され、御茶ノ水駅は国有鉄道の駅となる。
関東大震災でモノ・ヒトの動きに変化が……
1923年(大正12年)9月の関東大震災以前、中央線の輸送量は決して大きくなかったが、震災後に復興資材の輸送が拡大。都心から中野以西などへの住民移転で通勤客輸送も急増する。また、総武本線を市街中心地まで延長して他の路線と連絡させる計画が持ち上がり、関東大震災で市街地が焼失したことを契機として線路用地を買収し、両国と御茶ノ水を結ぶ高架路線を建設する。
その際に、御茶ノ水駅舎の新築も実施。駅舎の設計を行なったのは、東京帝国大学を卒業し、鉄道省に入省した、モダニズム建築様式に影響を受けていた建築家・伊藤滋だ。設計に際して外部団体の「東洋趣味で」との要望を一蹴し、震災復興橋梁として先に完成していた聖橋(1927年完成)、御茶ノ水橋(1931年完成)との調和したデザインを実施した。また、旅客流動を重視した設計で、乗客を次々に電車に誘導する新時代の鉄道駅を設計した。これは駅舎設計の根本的な転換で、以降の通勤電車駅の設計の基本となった。これ以降、乗降客数は比べ物にならないほど増加し、現在でも大正モダンの香りが残る「御茶ノ水駅」はその機能を果たし続けている。
駿河台の名称由来と明治大学
その御茶ノ水駅・お茶の水口改札を出て左手に拡がる高台が駿河台だ。現在の住居表示では“神田”の冠がついて神田駿河台とされ、1丁目から4丁目で構成される。
地名の由来は明確で、徳川家康の没後、幕府がこの台地に家康の出生地である駿府の役人を住まわせたことにある。そもそも駿河台は本郷台地とひと続きだったが、徳川二代将軍・秀忠が仙台藩の伊達政宗に命じて仙台堀(神田川)を開削させたため、現在のような地形となった。
神田駿河台のもっとも大規模な施設は明治大学である。1881年(明治14年)に司法省出身者や法学者で初代校長の岸本辰雄らによって設立された明治法律学校が前身の私学だ。フランス法学を講ずる仏系法学校で、自由民権運動とも深い関連がある。1886年に有楽町から神田駿河台南甲賀町に移転し、ほぼ現在の地に本拠を置いた。1934年には都内私学としてはいち早く、予科を杉並区永福の現在の和泉校舎に分割し、戦後は文系1~2年生のキャンパスとなった。
現在、同校のシンボルである駿河台1丁目の「リバティタワー」は、創立120周年の記念事業として建設され、1998年に竣工した23階建て高さ120mの高層校舎で、都市型キャンパスの先駆けとなった。17階には学生食堂「スカイラウンジ暁」、23階には「サロン燦」が置かれ、アプローチするためのガラス張りのエレベーターからは丸の内・大手町方面の東京都心が見下ろせる。
クラシックホテル「山の上ホテル」と「アテネ・フランセ」
明治大学を左手に見て、明大通りから左折して甲賀通りを登り詰めた明治大学キャンパスの一角、駿河台1丁目の高台にやや古めかしい「山の上ホテル」(HILL Top Hotel)がある。川端康成、三島由紀夫、池波正太郎、檀一雄をはじめとした昭和の作家たちに愛され、作品の執筆を所謂「缶詰」で行なった定宿として知られた客室35部屋の小さなホテルだ。常盤新平が著書『山の上ホテル物語』(白水社 2007)を遺している。
アールデコ様式の建物は、建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏の設計による。この建物は日本初の美術館、東京都美術館を寄付したことで有名な九州の石炭商・佐藤慶太郎氏が設立したもの。当初はマナーハウスとして利用された。ホテルとなったのは、戦後GHQの接収が解けた1954年からだ。2019年12月1日、施設のリニューアル工事が完成し営業を再開したばかりだ。
駿河台2丁目にあるアテネ・フランセは、1913年設立の外国語専修学校だ。東京帝国大学文学講師のジョゼフ・コットが「高等仏語」の名でフランス文学の講義を始めて以来、現存する日本最古のフランス語学校として質の高いフランス語講座を提供してきた。1962年に今の所在地に移転し、180余りのクラスを開講。幅広い世代が学んでいる。
附属アテネ・フランセ文化センターは、銀塩フィルム映像作品などを「字幕同時映像投影法」で作成された独自の字幕付き映像で上映し映像文化にも貢献している。
夏目漱石が学んだ小学校
神田駿河台の区立小学校・通学区は、駿河台3・4丁目の一部を除いて、ほぼすべて明治大学に隣接する千代田区立お茶の水小学校となる。この小学校は、1993年に錦華小学校(1873年[明治6年]開校)と小川小学校(1900 [明治33年]開校)、西神田小学校(1903 [明治36年]開校)の3校を統廃合し、旧・錦華小学校の校地にお茶の水小学校として開校した。錦華小学校時代から続く区立幼稚園も併設する。
前身の錦華小学校出身者で有名な人物は、近代日本文学の重鎮、夏目漱石で、同校の第一期生だ。旧・錦華小学校の校地であった、現在のお茶の水小学校の校庭外構に「吾輩は猫である 名前はまだ無い 明治11年 夏目漱石 錦華に学ぶ」と刻まれた記念碑がある。
ちなみにお茶の水小学校(旧・錦華小学校)の所在地は神田猿楽町だ。