ニッポンの自治体

NO.306
東京都千代田区有楽町・日比谷の特徴
東京都千代田区「有楽町・日比谷」の特徴とマンション

かつての東京エンタメ街は、いま定住人口16名の国際的なビジネス・商業の街

 有楽町は千代田区南部に位置するJR有楽町駅の周辺に広がるエリアだ。日比谷交差点で皇居南東側に接し、屋上を東京高速道路が走るコリドー街や銀座インズをはさんだ東側は銀座である。丸の内のビジネス街と銀座の繁華街の接点といえそうな街だ。

 現行の住居表示名でいう有楽町は1丁目と2丁目で構成される。JR有楽町駅周辺に拡がる地域で、その名称は千代田区の説明によれば、戦国武将・織田信長の13歳離れた弟で、同時代の大名だった織田有楽斎(おだ うらくさい/織田長益)に由来するとされる。有楽斎は千利休に茶道を学び、利休十哲のひとりとして数えられる人物。後には自ら茶道である有楽流を創始した。氏は京都の建仁寺・正伝院再興にも尽力し、ここに建てた茶室「如庵」は国宝に指定されている。

 このように茶人としても名を残す有楽斎であるが、関ヶ原の戦いのあと徳川方に属し、数寄屋橋御門付近に屋敷を拝領したとされる。その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたという。屋敷内にあった数寄屋造りの茶室が、外濠に賭けられた数寄屋橋の名称由来だという。

 数寄屋橋の名を全国的に有名にしたのは、NHKのラジオドラマ『君の名は』(菊田一夫作:1952~1954年放送)である。ラジオドラマから派生した映画『君の名は』は、松竹製作で主演は岸恵子と佐田啓二だった。
 1958年(昭和33年)に外濠は埋め立てられて橋はなくなり小公園となった。現在、『君の名は』の原作者・菊田一夫による「数寄屋橋此処にありき」と刻まれた記念碑が立っている。区の所属は決まっていなくゼロ番地の名称が与えられ、東京高速道路が走っている。

 付近は織田長益の屋敷があったことからも分かるように、丸の内から続く大名屋敷が建ち並ぶ、いわゆる「大名小路」の南端で、江戸時代には南町奉行所が置かれていた。
 明治期に有楽町と呼ばれるようになって、1910年(明治43年)に山手線が延伸されて有楽町駅が開設される。

マスコミ、映画&劇場エンタメ街としての有楽町

 有楽町には戦前から毎日新聞社、朝日新聞社の本社、讀賣新聞別館が置かれ、界隈は「新聞街」と呼ばれた。また戦後は、映画館が続々と建ち、1951年(昭和26年)に東日本初の民放局であるラジオ東京(放送局としては現在のTBSラジオ)が開局、1961年まで毎日新聞東京本社内に本社機能を置いていた。また、1954年にはニッポン放送が本社を置いた。同時にニッポン放送の子会社として設立されたフジテレビも1962年まで本社を置いていた。

 鉄道駅の開業で街には日劇や宝塚劇場などがオープン、有楽町は劇場街としても成立する。銀座に接する有楽町駅の東側は、1960年代に東海道新幹線開通と同時に再開発が進み、東京交通会館が建設された。また、1984年にはバブル経済に乗じて古くなった日本劇場と朝日新聞社屋も建て替えられ、デパート・映画館などが入る有楽町センタービル「マリオン」へ衣替えした。同時に朝日新聞社は築地に移転した。

「有楽町で逢いましょう」秘話

 なお、ヒット曲「有楽町で逢いましょう」(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正、歌:フランク永井)は、讀賣会館のキーテナントとして1957年5月にそごうデパートが東京進出を賭けて出店する際に使われたタイアップ・キャンペーン・ソングだった。一般にはあまり知られていないが、レコード会社(ビクター)、出版社(平凡出版・現マガジンハウス)、映画会社(大映)、テレビ局(日本テレビ)を巻き込んだタイアップ作戦は、当時の芸能・レコード・出版放送業界では画期的な出来事だったという。そごう東京店は現在ビッグカメラとなっている。

千代田区に「日比谷」という住所は存在しない

 有楽町駅の西側は、オフィス・ビル、劇場などが建ち並び、旧日比谷映画劇場・有楽座の跡地は、1987年にファッションビル「日比谷シャンテ」に建て替えられた。
 皇居と日比谷公園の一角を望む晴海通りと日比谷通り交差点脇に、2007年に開業したのがインターナショナルホテル「ザ・ペニンシュラ東京」だ。三菱地所の所有する敷地に、50年間の賃借契約により営業している。この場所にはかつて、日活社長だった堀久作が建てた日活国際会館があり、上層階は日活国際ホテルとして営業していた。

 また、2018年3月には、有楽町1丁目の再開発で「東京ミッドタウン日比谷」が開業した。旧三井銀行本店と三信ビルの跡地を再開発した首都第2のミッドタウンだ。地上35階建て(高さ約192m)で、床面積は約18万9000平方メートル。オフィスフロア(34階~9階)や、商業施設部分(地上7階~地下1階)が入居する。三井不動産はビジネスだけでなく、エリアの文化的価値を高める拠点とする意向を表明している。
同エリアは、JRのほか東京メトロ丸の内線・有楽町線・日比谷線・千代田線の各線、都営地下鉄三田線が通る鉄道移動に至便な街だ。

 ところで、千代田区日比谷という住所は存在しない。あるのは千代田区日比谷公園で、「丁目」の設定はなく、同公園全域が千代田区日比谷公園1番である。主な施設の住所は、日比谷公会堂と市政会館が日比谷公園1番3号、日比谷図書文化館が同1番4号、公園事務所が同1番6号である。1番5号は公園内の野外音楽堂、レストランと結婚式場である。公園地下には有料駐車場が設置される。

帝国ホテルと再開発計画

 その有楽町1丁目のとなり内幸町1丁目には日本が誇る高級ホテル“御三家”のひとつ「帝国ホテル」がある。1886年(明治19年)に東京官庁街計画に、外国人の接遇所を兼ねた国を代表する大型高級ホテル設計企画が組み込まれ、1890年に帝国ホテルが落成、開業した。隣接した鹿鳴館と重要な関連を持ったホテルであり、初代会長は明治期の殖産事業でたびたび登場する“日本資本主義の父”とされる渋沢栄一で、有限責任帝国ホテル会社を設立してつくったホテルである。現在は三井不動産が約33%あまりの株を保有する筆頭株主だ。
 この帝国ホテルを含んで隣接する東京電力HD本社ビル、NTT日比谷ビルなどを三井不動産が一体で再開発する大規模計画が進んでいる。

 なお、超都心の商業・ビジネス街である千代田区有楽町、内幸町の住民基本台帳に記載された人口は、2020年4月現在、有楽町が14名(11世帯)、内幸町が2名(2世帯)である。

  • 著者:吉田 恒道
  • (公開日:2020.05.19)

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