ニッポンの自治体

NO.309
東京都千代田区神田・小川町の特徴
東京都千代田区「神田・小川町」の特徴とマンション

神田は神社に納めるお米をつくる田圃の意、これが地名の由来か?

 神田とは伊勢神宮に収める稲を育てる田を指す名称で、千代田区神田の名称由来もそこにあるとする説がある。が、神田地区の神社と云えば神田明神であり、同神社のHPでは、「神社を創建した真神田氏の名からとり「神田」とし、地名の「神田」もここからつけられた」とある。
 ただし、同じページには、ご祭神・平将門にちなんだ説として、将門公の「からだ」がなまって「神田」、「からだの明神」が「神田明神」となったという説や、将門公の「かため」がなまって「神田」、将門公が片目を射抜かれたという伝説からつけられたとも併記されている。

戦後、神田区と麹町区の統合で旧神田区の町は……

 千代田区に“神田”を冠する町丁名……神田駿河台など……が多いのは、1947年(昭和22年)に神田区と麹町区が合併して千代田区が発足する際に、神田区に属していた町に「神田」を冠称する町名変更がなされたからだ。理由はやや正確性を欠くが、神田区の名前が消滅することを惜しむ住民の声に行政が応えたとも、麹町区と神田区に同じ町名(平河町)が存在するための便宜上の措置だったとも言われている。
 ただ、神田を冠さない、一ツ橋や岩本町、鍛冶町などの町名もあり、また西神田や内神田のように神田が重複する町名には冠していない。2020年現在、旧神田地区の住民はおよそ千代田区の人口6.6万人の半数近くを占める、区の中核ともいえるエリアなのだ。

 なお、「神田」を冠しない町域及び神田猿楽町、神田三崎町ではすべて住居表示が実施されているのに対し、神田を冠する町域(上記の神田猿楽町及び神田三崎町を除く)においては住居表示が実施されていない。神田末広町・神田金沢町・神田旅籠町三丁目の各全域を外神田三丁目に変更するなど、住居表示を実施するたびに神田を冠称しない町名に変更がなされており、かつての神田岩本町・神田鍛冶町と呼称していた町域のうち、住居表示が実施された町域が岩本町、鍛冶町である。

 その神田の名を冠した鉄道駅が「神田駅」で、JR東日本と東京メトロの駅が設置されている。JR東日本の駅は鍛冶町2丁目、東京メトロは神田須田町1丁目が所在地だ。神田駅は1919年(大正8年)3月、中央本線万世橋駅から東京駅開業に伴う中央線延伸で中間駅として開業した。1931年(昭和6年)、日本初となる地下鉄銀座線の開業で現在の東京メトロの駅が開設された。

住居表示実施住みの旧神田の街は“神田◎◎町”としない

 千代田区岩本町は先に記したように住居表示実施済みのエリアで、現行行政地名は岩本町1丁目から岩本町3丁目で構成する。なお、混乱しがちだが、神田岩本町も別にある。
 岩本町1丁目~3丁目は1965年に新設された町名で、神田岩本町の一部のほか、神田大和町、神田松枝町、神田元岩井町の全部、神田豊島町、神田東松下町の各一部からなる。神田岩本町は岩本町三丁目と昭和通りを境に西に位置する街区で、1965年の住居表示実施の対象外となった狭小な住居表示未実施区域が存続した町だ。

 なお、前述のとおり千代田区内の旧来の神田区の地域では、住居表示未実施の町名には「神田駿河台」のように「神田」を冠称し、住居表示実施済み区域では、「岩本町」に限らず、「三崎町」「猿楽町」のように神田を冠していない。

 エリアは商業地域としての性格が強く、オフィスや商店が多い地域だ。また岩本町一帯、なかでも現在の3丁目付近は、かつて大規模な古着市場があったことでも有名であった。この名残で、数は減ったものの東神田、日本橋横山町・馬喰町と共に繊維業界の企業や商店が多い。岩本町3丁目には都営地下鉄新宿線の「岩本町駅」が靖国通り直下にあり、異色な企業として山崎製パンの本社が3丁目に置かれ、付近一帯には「デイリーヤマザキ」の店舗が多い。岩本町1丁目~3丁目の2020年4月現在の人口は3634名(2466世帯)だ。

世界でも有数のスポーツ用品店の街「小川町」

 都営地下鉄で新宿方面に行くと、神保町の手前に「小川町(おがわまち)駅」がある。江戸時代、小川町は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称だった。古くは、鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠町(もとたかじょうまち)と呼ばれていたが、江戸元禄年間の1693年(元禄6年)に小川町と改称された。5代将軍綱吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わる。

 小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたから、あるいは「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれる。江戸城を築いたとされる室町の武将太田道灌は、その風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹(ねぜり)をあらひこそすれ」と詠んだと伝わる。1872年(明治5年)に周辺の武家地を整理、小川町となり、神田区に所属する。

 明治時代、界隈は西洋料理店や割烹料理店などの有名料理店ほか、書店や洋品店、勧工場(百貨店の前身)で時計塔としても知られた南明館などが立ち並び、周辺の雉子町(きじちょう)、美土代町(みとしろちょう)、錦町(にしきちょう)、表神保町(おもてじんぼうちょう)などとともに東京を代表する繁華街として栄えた。
 また、簿記学速記学速成教授所、天神真揚流柔術教授所、東京物理学校、私立鳥海女学校、研精義塾、裁縫を教える裁縫正鵠女学校などの学生たちで賑わう街でもあった。

 1923年(大正12年)の関東大震災後、震災復興都市計画により1933年(昭和8年)、小川町が誕生。戦後、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町となった。1960年代になって学生や若者の趣味を反映して大型のスポーツ用品店が出店しはじめ、現在では東京のみならず日本屈指のスポーツ店街として多くの人々を集めている。毎年10月にはスポーツ店街が催す、年に一度の「神田スポーツ祭り」が開催され、超お買い徳品満載のスポーツ『我楽多市』、カレーグランプリ、ミュージックフェスティバルなど様々なイベントが開催される。
 神田小川町1丁目~3丁目の人口は2020年4月で、1202名(738世帯)だった。

  • 著者:吉田 恒道
  • (公開日:2020.05.19)

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