ニッポンの自治体

NO.282
東京都港区赤坂の特徴
東京都港区「赤坂」の特徴とマンション

外資系企業や放送局、高級ホテルなどが牽引、1960年代から発展した街

 1567年(永禄10年)に開拓されるまで、東京・赤坂は山林や畑が多く、人家はほとんどなかったという。徳川家康が江戸入りする以前のことだ。赤坂の起源は、見附から四谷へ登る「紀伊国坂」のこととされる。坂上に茜草(あかねぐさ)が群生して「赤根山(あかねやま)」と呼ばれたことから、赤根山にのぼる坂を赤坂と称するようになったというわけだ。また、「染物屋が坂に赤い絹を干したから」という説もある。

 赤坂の地名は、1657年(明暦3年)発行の地図に、はじめて登場。この地図には千代田区側に記されていた。このため、赤坂は麹町へのぼる坂の名だった可能性も残る。江戸期、このエリアは大半が武家屋敷地だった。

明治期に赤坂区の誕生で町名が定着

 維新後の1878年(明治11年)の「郡区町村編制法」施行で、赤坂および青山地区が赤坂区となる。第2次大戦後の1947年(昭和22年)に港区が成立し、赤坂区に所属した各町は、赤坂一ツ木町などのように、すべて“赤坂”を冠した。1966年(昭和41年)の「住居表示に関する法律」により、赤坂溜池町、赤坂田町、赤坂新町、赤坂一ツ木町、赤坂丹後町、赤坂表町、赤坂台町、赤坂檜町、赤坂中之町、赤坂氷川町、赤坂福吉町、赤坂霊南坂町などの全域または一部と麻布谷町の一区画をあわせて、現在の「赤坂」となった。

 一ツ木赤坂といわれた集落は、永田町交差点のあたりにあったが、江戸城の拡張によって“見附門”が設置されるために、赤坂見附交差点の西側を代地とした。このとき、赤坂下の最も古い町を意味する“元”を冠して元赤坂となった。
 1872年(明治5年)、元赤坂町、赤坂伝馬町、赤坂裏伝馬町などが合併して赤坂裏となりその後、赤坂区に所属。後に赤坂表、赤坂裏、四谷仲町などの一部を編入、1947年(昭和22年)に港区に所属する。「住居表示に関する法律」により、赤坂表町、赤坂伝馬町、元赤坂町、赤坂青山権田原町、赤坂表町、赤坂青山六軒町などをあわせた地域が「元赤坂」となった。現在は、大部分が赤坂御用地だ。

 その赤坂御用地に青山通り(国道246号)を挟んで面する著名な和菓子店「とらや赤坂店」のビルが2018年10月、建替えられて話題となった。1964年に建築した9階建て旧店舗から、和菓子屋として必要な要素を凝縮した低層4階建てに生まれ変わったのが特徴だ。
 1階は、来場客を迎え入れるエントランスで、予約品の受け渡しなどスピード感を要するサービスにも対応。2階に上がると、一面同社の菓子を取り揃えた開放的な売り場が広がる。そして3階は、菓子製造場である「御用場」と喫茶「虎屋菓寮」を併設。明るく開放的な空間を実現。半個室席やテラス席なども用意する。地下はギャラリースペースとなる。

神田上水、玉川上水の整備以前、溜池は貴重な上水だった

 江戸城石垣跡は地下鉄虎ノ門駅に隣接する文部科学省・地下などで見られるが、そこから西北へ、赤坂見附まで広がっていた大きな堀が溜池だ。いまでは何も残っておらず、池の跡にできた「溜池町」という町名も、住居表示としてはなくなった。が、高速道路の下の交差点名と、バス停、東京メトロ地下鉄駅「溜池山王」の名前に残る。
 溜池はその名のとおり、人工的に水を溜めてつくった池で、江戸城外堀の一部となった。神田上水、玉川上水が整備されるまで、飲料用の上水ダムだったという。今の不忍池以上の大きさだった。その堤には榎が植えられ、現在の赤坂ツインタワーから米国大使館に至る坂道は榎坂と呼ばれる。溜池は、水質もよく、風景も美しく、歌川広重などの浮世絵によく描かれた。
 宝永年間あたりから周囲が徐々に埋め立てられ、町屋や馬場・紺屋物干場などができ、1888年(明治21年)に赤坂溜池町ができる。1966年の住居表示実施に伴う町丁名変更により赤坂1丁目と赤坂2丁目が誕生し、溜池町の名称は消滅した。

 昭和初期から昭和40年代にかけてはこの周辺に輸入車の販売店が集積するようになり、溜池交差点から山王下までだけで米国車を中心とした10社を超える高級輸入車代理店&ディーラーが軒を連ねた。アメ車中心のラインアップのなかで異彩を放っていたのが、三和自動車が正規代理店だったポルシェのショールームだった。

 赤坂一ツ木通りに名を残す一ツ木町は、江戸時代の町奉行だった大岡忠相の屋敷があった街だ。その大岡邸内にあった豊川稲荷は現在でも残っており、盗難よけの御利益があるとされ信仰を集める。先の大戦前には近衛歩兵第二旅団司令部などがあり陸軍の街だったという。1955年にTBSのテレビ部門が一ツ木町に局舎を建設、1966年の住居表示実施に伴う町名変更により赤坂4丁目と赤坂5丁目が誕生し、一ツ木町は消滅した。

1960年代、銀座と並ぶ高級な夜の街として発展

 1960年代から70年代にかけて赤坂は銀座と並ぶ高級な夜の繁華街として発展する。高級料亭や高級クラブ、グランドキャバレーやトレンドを牽引する飲食店が集まった華やかな街として有名になる。なかでも欧米企業の日本支社や大使館駐在員、欧米系航空会社の客室乗務員が定宿とする高級ホテルなどが集まっていたため、外堀通りをはさんだ向かい側の永田町2丁目と赤坂は、外国人客が多い街として華やいだという。

 その永田町2丁目(千代田区)には、江戸三大祭のひとつ山王祭が行われる大規模な日枝神社がある。日枝神社は、古くは江戸山王大権現と称され、1590年(天正18年)に徳川家康が江戸城入城し、以来、江戸城の鎮守として崇敬された。西暦偶数年6月の大祭である山王祭はその規模は東都随一され、神田祭、深川祭とともに江戸三大祭と称され、その祭礼に係わる費用を幕府が支出したことから「御用祭」ともいわれた。

 その隣、かつて東京を代表した高級ホテル「山王ホテル」跡地に、超高層ビル「山王パークタワー」が2000年に竣工している。当該ビルは日枝神社の空中権を取得して容積率緩和によって建てられ、総理大臣官邸・公邸にも隣接する。なお官邸側には極力窓を設置せず、かつ外が見えないように設計されている。入居するテナントは、キーテナントのNTTドコモを除くとドイツ銀行などの外資系企業の日本支社がほとんどだ。

 何度も記してきた1966年の住居表示実施で、それまで赤坂一ツ木町などのような赤坂◎◎町という表記は消え、赤坂1丁目から9丁目、元赤坂1丁目・2丁目、赤坂葵町は虎ノ門2丁目になった。なお、赤坂1丁目から9丁目、および元赤坂1丁目・2丁目の学区は、港区立赤坂小学校、港区立赤坂中学校だ。

  • 著者:吉田 恒道
  • (公開日:2020.05.13)
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