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- 東京都目黒区下目黒の特徴
目黒不動尊・瀧泉寺に由来する“住みたい街人気”上位「目黒区」の中核エリア
江戸の守護を目的に建立された五色不動のひとつである下目黒3丁目にある目黒不動尊(泰叡山・瀧泉寺)に由来する地域名だ。瀧泉寺は慈覚大師円仁の創建と伝わる古刹である。目黒不動は五色不動の中で最も著名であり、現在でも多くの人々の信仰を集める。
東京の五色不動は、この目黒のほか目白、目赤、目青、目黄の不動尊の総称。五眼不動、あるいは単に五不動とも呼ばれる。
江戸末期まで、目黒不動尊の寺町だった街
1745年(延享2年)、現在目黒と呼ばれる地域は、江戸の町奉行が管轄する南西の端に位置していた。ただし、本来であれば江戸の領域外となるはずだったが、目黒不動尊のために唯一の例外として町奉行の支配地域である黒線(墨引)の内側に入る御府内とされた。江戸の末期まで、武家地としても町人町としても成立しておらず、目黒不動尊の寺町として栄えていた農村の一部で筍の名産地だった。
現在の目黒区目黒は、エリアを東西に走る目黒通りに北側に沿って、東端は目黒駅の所在地である品川区上大崎に接する目黒1丁目から西方向に伸びている。地域は目黒川を越えて、山手通りを横切り、西で仲町に接する目黒4丁目まで1kmほど続く地域である。目黒通りを境に接するのが下目黒で、山手通りを北西に行くと中目黒である。
目黒駅は目黒区にあらず
現在の山手線の起源は、かつて重要な輸出品であった生糸を高崎から横浜港まで輸送するために、1885年(明治18年)、品川から赤羽まで、品川線が敷設されたことだ。開設した駅は、品川駅・目黒駅・渋谷駅・新宿駅・目白駅・板橋駅と6駅だった。1903年(明治36年)、田端から池袋間に豊島線が開通し、品川線と併せて、山手(やまのて)線と呼ばれることになった。戦後、占領軍が欧文字表示として「ヤマテ・ループ・ライン」と誤記したため、以来「やまてせん」と呼ばれていたが、1971年(昭和46年)、「やまのてせん」の呼称に戻った。
現在の目黒駅は、JR東日本山手線、東急電鉄目黒線、東京メトロ南北線、都営地下鉄三田線の各線が乗り入れている。なお、名称は目黒駅であるが、駅所在地は目黒区目黒ではなく、品川区上大崎だ。山手線の前身である品川線敷設の当初計画では、目黒川沿いに路線を敷く計画だったが、大崎から渋谷までほぼ直線で結ぶ現在の路線でつくられたという。ゆえに、開設当初から駅は目黒村ではなく、大崎村にあった。
権之助坂と行人坂
その目黒駅西口を出て、山手通り・大鳥神社方面に向かう目黒通りの下り坂が、権之助坂と呼ばれる通りだ。江戸時代、地元の名主であった菅沼権之助によってつくられた道で、幕府の意向に反して勝手に坂道を開いたとする冤罪で処刑された。が、権之助を慕う住民がその名を付けて現在に至っている。権之助坂が下り車線の一方通行で、一方通行の上り線である放射3号支線(通称:新坂)は、増加する交通量などに対応するため1960年代に住宅地を接収して開通した。
この権之助坂が出来る以前のルートは、目黒駅西口の権之助坂入り口のさらに左側を通る行人坂を、左手に大円寺を見ながら歩き、太鼓橋が架かる目黒川を越えて大鳥神社に向かった。現在も変わらない平均斜度15%余りの急坂で、当時から不評であった。"権之助坂"が開通して庶民の通行が格段に快適になったという。
それまで行人坂が江戸市中から目黒筋への幹線道路だったが、権之助坂が開かれ明治になって鉄道が敷設されると人々が通行する坂の主役は、権之助坂に移ることになった。
坂の街、下目黒1丁目
その権之助坂~目黒通りを境界に南で接するのが目黒区下目黒だ。1丁目から6丁目で構成する。行人坂は下目黒1丁目の坂だ。坂の町である1丁目を下ると目黒川にぶつかる。目黒川を越すと平坦な2丁目。山手通りを渡ると上り坂になって3丁目。その先は4丁目から6丁目まで順に並び、おおむね平坦だ。
目黒駅から目黒川に至る下目黒1丁目は、ほぼ商業地区であり権之助坂の両側に拡がる権之助坂商店街は250店舗を超えるという。
ソメイヨシノの名所でもある目黒川・沿岸の中高層マンションは、新築物件は即完売する例が多く、中古物件の人気も極めて高い。
行人坂の下端、左側には結婚式場・レストランなどで知られるクラシックホテル目黒雅叙園がある。1931年(昭和6年)開設の雅叙園は日本で最初の総合結婚式場でもある。ホテル内で現存する木造建築「百段階段」は、東京都の指定有形文化財に認定されている。同敷地内には、高層オフィス棟のアルコタワーおよびそのアネックスが整備され、入居する企業はアマゾン・ジャパンなどの外資系企業日本法人が多い。
かつて競馬場で繁栄した街は、低層高級住宅地
下目黒4丁目から6丁目がほぼ平坦なエリアであるのには理由がある。この地には1907年(明治40年)から1933年(昭和8年)まで、一周1マイル(約1600m)・総面積6万4580坪の競馬場があったのだ。東京競馬場が府中市へ移転するまで、いわゆる現在の中央競馬にあたるレースが開催されたレースコースで、スタンド観客席は目黒通りを背にして建設され、目黒通りを渡った場所に各厩舎が設けられていた。
1932年(昭和7年)には、日本の近代競馬の基幹競走となる東京優駿競走(日本ダービー)が創設され、記念すべき第1回が開催される、観客席は満場となる人気を集めていき、競馬開催の規模も拡大していった。ただ、敷地総面積が6万坪あまりの目黒競馬場では、すでに限界だった。加えて、近隣の宅地化によって敷地を広げることは難しくなっていた。それでも尚、競馬人気の前に手狭になっており、目黒競馬場は存続自体が難しい状況になった。そして、前述のように第2回日本ダービーは、東京・府中市の東京競馬場(府中競馬場)に移転して開催された。
現在、東京競馬場で施行されているG?・重賞競争「目黒記念」は、目黒競馬場の名を後世に残すため1932年(昭和7年)に創設され、以来現在まで続く伝統のレースだ。
跡地一帯は住宅地化されており、低層住宅地にゆとりのある低層高級マンションが数多く建つ。また、当時の競馬場外周道路の一部が路地となって残っている。また、競馬場正門付近にあたる目黒通りの交差点には「元競馬場」の交差点名がつき、付近には「元競馬場前」という名称の東急バスのバス停がある。