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市ヶ谷~飯田橋・神楽坂、かつての牛込区の住宅街と山の手の銀座は……
JR中央総武線に新宿駅から乗って、5つ目の駅が市ヶ谷だ。その市ヶ谷駅から春なら外堀の満開の桜並木を飯田橋へ歩く。その飯田橋駅の外濠のたもと、西口改札口を過ぎて牛込橋を渡れば神楽坂下交差点だ。そこから江戸情緒を満喫しながら神楽坂を散策する。
市ヶ谷はJR市ヶ谷駅の西側、外濠の外側にひろがるエリアで、靖国通りと外苑東通り、大久保通りと牛込中央通りに囲まれた地域と、靖国通りの外苑東通りから外苑西通りまでの北側も含まれる。なかでも、江戸時代に大名屋敷が並んでいた台地に位置するエリアは、明治時代から山の手の一部とされ、現在でも高級住宅街として評価される。同エリアは、1878年(明治11年)の郡区町村編制法による東京15区制が戦後、1947年(昭和22年)に地方自治法制定に合わせ改変されて、現在の23区制への再編まで、牛込区に属する地域だった。
太田道灌が創建した亀岡八幡宮に由来する市ヶ谷
この地域の名称である“市ヶ谷”の由来のひとつとされる「神社の門前で市が開かれた」という市谷亀岡八幡宮は、太田道灌が1479年(文明11年)に江戸城築城の折に城西方の守護神として鎌倉鶴岡八幡宮の分祀したのが始まりだという。当時は江戸城・市谷門の中にあったが、江戸時代になって外濠が完成して以降、現在地に移転した。当時は市谷八幡宮と称した。門前には茶屋や芝居小屋などが並び、例祭は江戸市中でも華やかなものとして知られ、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれた。その後、1945年、第二次大戦の東京空襲で神木なども含め焼失。1962年に現在の社殿が再建され、現在でも地域の人から信仰を得ている。
しかしながら、歴史的な市谷の地名は上記地域を指すものの、JR市ケ谷駅が外濠を挟んだ千代田区五番町にあるため、「市ヶ谷」「市ケ谷」「市谷」の名を冠した建築物は新宿区側・千代田区側(番町・九段地域)の双方に存在する。例を挙げると、法政大学市ヶ谷キャンパス、上智大学市ケ谷キャンパス、アルカディア市ヶ谷(旧私学会館)などである。そのため、千代田区内のJRおよび地下鉄駅周辺地域も慣例的に市ヶ谷と呼ばれている。現在、その市ヶ谷駅にはJR中央総武線のほかに都営地下鉄新宿線、東京メトロ有楽町線、同南北線が乗り入れ、ターミナル駅の様相を呈する。
なお、千代田区番町・九段地域については、コラム「番町・麹町」篇に詳しいので参照のこと。
ターミナル駅を結ぶ外濠の桜の名所
JR市ヶ谷駅から飯田橋駅までの外濠に沿って約2kmにわたって続く外濠公園には桜の名所である並木が続く。シーズン中は中央総武線の車窓から見える濠の景色も桜色に染まる。遊歩道は、ゆっくり歩いても30分ほどの散策コース。近くにある法政大学前のヤマザクラも見どころのひとつだ。
飯田橋駅も隣の市ヶ谷駅以上に複数の路線が乗り入れるターミナル駅だ。JR中央総武線のほか、東京メトロ東西線、同有楽町線、同南北線、都営地下鉄大江戸線の4本の地下鉄が乗り入れ、1日の乗降客数は2018年で、合計40万人弱とされる。
JR飯田橋駅は改築中で、ホームを西に移動させ、新宿方面の直線区間へ約200m移設してホームと車両の隙間を解消させる。同時に、西口駅舎の建て替えと駅前広場の整備を実施することを発表している。
そして、冒頭で記したようにJR飯田橋駅西口の牛込橋を渡ると神楽坂下交差点だ。その神楽坂は、新宿区内の早稲田通りの大久保通りとの交差点から外濠通り交差点までの坂の名称であり、その坂の周辺の地名であり神楽坂1丁目から6丁目で構成される。大久保通りとの交差点が「坂上」、外濠通りとの交差点が「坂下」と呼ばれる。またこの地名は東京メトロ東西線「神楽坂」駅、都営地下鉄大江戸線「牛込神楽坂」駅の名称にもなっている。
戦前、都内有数の花街として発展した山の手の銀座
神楽坂エリアは大正時代、東京市中でも赤坂、新橋に次ぐ花街で、牛込橋からのぼる坂の右手の花街特有の路地が残っている。また、1923年(大正12年)の関東大震災のあとに日本橋や銀座から商人が移住、夜店が盛んになり、花柳界として料亭が約150軒、芸妓約600名を擁するほどの華やかな街であったそうだ。神楽坂エリアが山の手銀座と言われた時期はこの頃だ。坂沿いに建ち並んだ商店街は、瀬戸物屋・和菓子屋など和の店が中心だったという。
近年、チェーン店やコンビニの進出が目立ち、老舗が急速に減少しつつある。また、周辺の住宅街でも次々に中高層マンションが建設されている。神楽坂5丁目から矢来町にかけて高級住宅街が形成されている。
それでも神楽坂の表通りから一歩入ると静かな路地があり、住宅街のなかにレストランや料亭などが多く見られる。かつて、明治時代には尾崎紅葉や泉鏡花など文人が住み、尾崎紅葉旧居跡は新宿区指定史跡、泉鏡花の旧居跡は新宿区登録史跡である。また、坂の頂上付近には毘沙門天善国寺をはじめ、周辺に若宮八幡、赤城神社などの寺社が散在する。赤城神社の隣には隈研吾設計によるパークコート神楽坂が建つ。
また、アンスティチュ・フランセ東京(旧・東京日仏学院)をはじめとし、フランス関係機関の多さから、フランス人が多いのが特徴でもある。
都市伝説となった神楽坂通りの逆転式一方通行の西に拡がる高級住宅街
神楽坂通りは、逆転式一方通行道路であり、自動車などの進行方向が午前と午後で逆転する全国的にも稀な通行区分となっている。午前中は「坂上から坂下」(早稲田側から飯田橋側)であるが、午後は「坂下から坂上」となる。それを知らずに逆行するクルマが少なくない。通行する際は注意が必要である。
これは余談で、一種の都市伝説・噂でしかないが、逆転式一方通行となった背景は、かつての宰相・田中角栄が目白台の自宅から永田町に向かう出勤時(午前)と帰宅時(午後)の利便性のため、ゴリ押ししたからとされた。しかし実際は、急激な交通量の増加で通り沿いの陶器店にクルマが突っ込む事故が発生、1956年に都心から西側の住宅地に向けた一方通行となり、1958年に現在の逆転式一方通行になったというのが正解だ。
その神楽坂通りより西側の市谷方面に向かうと、徐々に街の風景は変わって、低層のマンションが多く見られる。住所表示が、新宿区若宮町、中町、南町、払方町、砂土原町, 加賀町といったあたりだ。このあたりの街並みは、一戸建もマンションも広い敷地に邸宅然とした佇まいを見せており、ひと目で高級な住宅地であることがわかる。
市谷の防衛省北側の市谷加賀町1丁目の高台では、日本印刷業界トップの大日本印刷(DNP)本社および加賀町事業所の再開発計画が進んでいる。おおむね3期に分けた計画ですでに2期計画を終え、25階建て本社ビルへの移転を済ませたという。
その北にある新宿区立牛込第三中学校の東で、三菱地所レジデンスが、ザ・パークハウス市谷加賀町レジデンスの開発を行っている。都営地下鉄牛込柳町駅まで徒歩6分、同牛込神楽坂駅まで徒歩8分、JR市ヶ谷駅でも徒歩12分、NTT社宅跡地6700平方メートル超の敷地で進む、228戸の70年定期借地権付き低層マンション計画だ。竣工は2021年8月を予定。
市谷加賀町のもつ屋敷町としての風情に、上質な空間を提案するカッシーナ・イクスシーが共用空間のインテリアをデザイン。大規模物件らしいスタディブース、ゲストルーム、コンシェルジュサービスなどの多彩な共用施設やサービスも導入、暮らしをサポートするという。
神楽坂にほど近い市谷旧屋敷町の住宅を休息の邸としながら、神楽坂の情緒ある街並みを散策し、贔屓の料理屋を見つけて粋な大人の余暇を愉しむ。それが神楽坂における理想的な住まい方なのかもしれない。