兵庫県神戸市東灘区の特徴
― ニッポンの自治体 ―
「灘の生一本」を生んだ“水と自然”に恵まれた近畿有数の住宅都市
東灘区は神戸市の東端に位置し、面積34.02平方キロメートルの行政区だ。電車で三宮まで15分、大阪梅田まで30分というアクセスの良さと、海と山に囲まれ環境に恵まれた土地で、近畿有数の住宅地として発展してきた。阪神淡路大震災では多大な被害を被り、一時的に人口は減少した。が、マンションの建替え、新築などが相次ぎ、区の人口は震災前を上回っている。
兵庫県・神戸市東灘区のマンション
2018年に兵庫県・神戸市東灘区で販売された新築マンションは58戸。同市で販売した新築マンションの相場価格は2990万円~8086万円だった。中古マンション相場価格は1750万円~6860万円である。
神戸市東灘区の人口は、2019年1月現在、21万4345人で、総世帯数は10万1527世帯だった。
同区内の住吉東ノ平で先土器時代の石器が発見され、本庄・北青木・西岡本遺跡からは縄文時代の遺物が発見されたことから、原始時代から東灘は、水も豊富で人々の生活に適した場所であったとされている。
弥生時代、稲作が始まり、同区住吉町で、もみあとのついた土器や保久良神社で石庖丁が発見された。同時に、渦ヶ森・森・生駒・本山で銅鐸が、保久良神社からは銅戈がみつかり金属器が使われはじめたことが分かる。
江戸時代、「灘の生一本」として全国に知られる酒造業が代表産業に
4世紀半ばに大和政権が日本を統一し、氏姓制度をもとに豪族を支配していった。東灘に残る古墳もこうした豪族の手によるものだとされる。
大化改新を経て律令制が敷かれ、東灘は摂津国菟原郡に属した。奈良時代に入ると同地域で荘園が出現する。
中世、政治の担い手が貴族から武家へと移る。鎌倉から室町時代への移行、そして戦国時代を経て、織田信長のあと天下を統一した豊臣秀吉は検地を行ない、東灘はほぼ全域が豊臣家の直轄地となった。
徳川時代に移行し、東灘は尼崎藩に組み入れられ、以後、戸田・青山・松平といった大名たちが尼崎藩主となり東灘を支配する。農村だった東灘は京都・大阪に通じる街道筋だったため産業が発達。御影石の切り出しや酒造業などが盛んになる。なかでも酒造業は「灘の生一本」として全国に知られた東灘の代表産業に成長する。
酒造業を中心に産業が発展した東灘地域に徳川幕府は注目し、1769年(明和6年)、東灘南部のおもな村々を天領地とした。
1874年、いち早く鉄道が整備され、郊外型住宅地として発展
明治になると、東灘天領の村々は兵庫県となる。1874(明治7年)、神戸~大阪間に鉄道が開通し住吉駅が開業。1889(明治22年)、市制・町村制が施行され、神戸市と東灘区の前身である御影町・住吉村・魚崎村・本庄村・本山村の東灘旧五カ町村が誕生した。その後、近代化に伴う交通機関の発達で東灘は大阪・神戸の郊外住宅地として発展する。
先の大戦で大きな損害をこうむった東灘も戦後の復興が始まった。1950(昭和25年)4月、御影・住吉・魚崎の三カ町村が神戸市に合併し、東灘区が誕生。そして、半年後の10月に残りの本庄・本山の両村も合併して現在の区域になった。
1950年代に入り東灘区は、阪神間の住宅地として人口が急増する。1960年には13万5000人までに増加する。1970年代に入り、都市化が進み、六甲の土砂を削り、その土で海を埋め立て、削った六甲に住宅地を造成した。
阪急神戸線に沿った北部エリアに住宅地が広がる。阪急岡本駅周辺には甲南大学、神戸薬科大学、甲南女子大学などのキャンパスがあり、「学生の街」という側面をも持ったエリアだ。
神戸市第2の人口島である六甲アイランドは、1993(平成5年)に完成。人口1万4000人の未来都市が建設された。
1995(平成7年)1月17日午前5時46分、神戸市を阪神・淡路大震災が突如として襲う。この地震で東灘の街は壊滅状態に陥った。神戸行政区で最大の1470人の死者を出し、古い街並みや酒蔵など東灘の多くの歴史的資産を破壊した戦後最大の惨事だった。19万人だった人口も一時15万5000人にまで落ち込んだが、急速な復興を遂げ、震災後に新たに区民となった人が4割を超え、冒頭で記したように人口20万人超となっている。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)