千葉県鎌ケ谷市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
至便な鉄道交通網で、首都近郊の住宅都市として発展したコンパクトシティ
千葉県鎌ケ谷市は、千葉県の北西部、北総台地に広がる総面積21.08平方キロメートルのコンパクトな都市だ。同市内には、東武野田線・新京成線・北総線・成田スカイアクセス線の鉄道4線と道路網が発達しており、都心から25km圏内にあることから、首都近郊の住宅都市として発展してきた。
鎌ケ谷市は、1971年(昭和46年)9月、人口4万4760人の千葉県下24番目の市として市制施行する。その後の着実な人口増加により1996年(平成8年)、人口は10万人を超えた。
千葉県・鎌ケ谷市のマンション
2018年、千葉県・鎌ケ谷市で販売された中古マンション相場価格は1470万円~3290万円だった。
2019年1月現在、千葉県鎌ケ谷市の人口は、同市の発表によると10万9972人。総世帯数は4万9269世帯である。
鎌ケ谷市域に人の集落ができたのは、奈良時代だと言うことが、市内で発掘された遠山遺跡(軽井沢地区)と大堀込遺跡(中沢地区)で分かっている。
平安時代の遺跡も第四中学校(中沢地区)から万福寺にかけて数多く見つかっている。とくに双賀辺田遺跡からは、住居跡17軒、高床式建物跡14軒をはじめ、墨書土器など数々の貴重な遺物が発見され、同時に高価な帯金具などがあったため、特別な任務をもっていた集落だったらしいことが分かる。
鎌倉時代になると下総国は千葉氏の支配下にあり、鎌ケ谷市北部、我孫子市、柏市の一部、沼南町が下総国相馬郡だった。
江戸時代、松尾芭蕉や画家の渡辺華山ら、多くの文人墨客が訪れた街
江戸時代、鎌ケ谷は、行徳や八幡(市川市)と木下(印西市)を結ぶ重要な脇往還だった「木戸道」の要衝で、この街道が木下から鹿島や銚子へと続いていたため「鹿島道」「銚子道」、また銚子や鹿島難でとれた鮮魚を江戸日本橋まで運ぶルートとして「鮮魚道」などとも呼ばれていた。その中心「鎌ケ谷宿」には、多くの文人墨客が訪れ、貞享4年(1687年)には、松尾芭焦が「鹿島紀行」の旅の途中に立ち寄り、文政8年(1825年)には、江戸時代の画家として著名な渡辺華山が利根川を旅したときに宿をとおり、画集「四州真景図」に釜原の絵を描いている。最盛期に問屋が1軒、旅籠屋が7軒あったとされている。
名産品の鎌ケ谷の「梨」は、明治期から栽培
時代は明治に移り、1889年(明治22年)の市町村制施行に伴い、佐津間・粟野・初富・鎌ケ谷・道野辺・中沢に、印旛郡根村から軽井沢を加えた計7つの地区を合わせて新しく鎌ケ谷村が誕生した。村名は宿場があったために知名度があった鎌ケ谷を使った。以後、市域は農業地域として発展する。
現在、鎌ケ谷市の主要農産物となる梨の栽培は明治34年ごろから始まった。大正時代になり新品種として長十郎が導入されると、収穫量が徐々に増加する。その後、梨栽培は太平洋戦争で一時衰退するも、三水(新水・幸水・豊水)の普及や耕地面積の拡大などで、梨栽培は鎌ケ谷市の主要産業になる。
先の戦争も終わり、1952年(昭和27年)の町村合併促進法により、鎌ケ谷村周辺の町村も再編成が進む。1958年(昭和33年)、鎌ケ谷村は、他の村々と合併することなく単独で町制を施行した。人口は1万1498人だった。
そして1971年(昭和46)年9月、千葉県で24番目の市として、鎌ケ谷市が誕生した。市制施行時の人口は4万4760人、市制の施行により行政規模が拡大、合わせて東京近郊の住宅都市として年を追うごとに人口も飛躍的に伸びた。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)