千葉県習志野市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
かつての軍都は文教住宅都市へと変貌、自治体面積は3倍以上に
習志野市は千葉県の北西部の葛南に位置し、東京都心からほぼ30km圏にある。東は千葉市、西は船橋市、北は八千代市に接し、南は東京湾に面している。
海岸線は千葉港(東京湾)の一部を形成し、地形は東西8.9km、南北6.2kmで内陸部の自然地形と平坦な埋立地で構成される。 古くは、騎兵連隊・鉄道連隊が置かれるなど軍都として発展してきたが、現在、軍用地の跡地は病院や学校に建替えられ、軍都から文教住宅都市へと生まれ変わった。臨海部は埋め立てられ袖ケ浦団地、秋津団地などの大型団地が建設され、東京のベッドタウンとして発展した。
千葉県・習志野市のマンション
2018年、千葉県・習志野市で販売された新築マンションは4戸で、相場価格は3658万円~4197万円。同市内の中古マンション相場価格は1680万円~4760万円だった。
2019年1月現在、習志野市の人口は17万3205人、総世帯数は7万9294世帯だった。
習志野市は1954年(昭和29年)8月1日、千葉県下で16番目、全国で415番目に市制施行し、それまでの「千葉郡津田沼町」が新たに「習志野市」として発足した。
小さな自治体は、海岸線の大規模な埋め立てで、3倍以上の面積に
かつて津田沼町時代の昭和初期、同市域の面積は約6平方キロメートルほどの小さな自治体だったが、1954年(昭和29年)の市制施行以降、1966年(昭和41年)、1977年(昭和52年)の海岸線埋め立て工事によって、現在の総面積20.97平方キロメートルの自治体となった。
1カ所だけ埋め立てられずに残った「谷津干潟」は、ラムサール条約登録地であり、渡り鳥の重要な中継飛来地だ。
明治以降、陸軍演習場のある軍都として発展する
1873年(明治6年)4月、明治天皇を迎えて行なわれた帝国陸軍大演習の際、全体指揮をとった篠原陸軍少将のめざましい活躍を称え、「篠原を見習うように」との陛下からのお言葉があり、このことから「見習篠原」が「見習志野原」になり、習志野原になったという説がある。
習志野市域はかつて、騎兵連隊・鉄道連隊が置かれるなど軍都として発展してきた。1873年(明治6年)、現在の習志野市・船橋市・八千代市にまたがる小金牧の一部が陸軍の演習場となった。1889年(明治22年)に谷津・久々田・鷺沼・藤崎・大久保新田の5村が合併して人口約4500人の津田沼村が誕生し、1903年(明治36年)に津田沼町となった。
演習場に引き続き、1999年(明治32年)に大久保の騎兵旅団、1907年(明治40年)津田沼の鉄道大隊(のち鉄道第2連隊)が置かれるなど軍関連施設が建設された。一方、1895年(明治28年)の総武線津田沼駅が開業。その後、大正時代には京成線各駅の開業など鉄道交通網が発展する。こうした軍隊と鉄道の存在は、街並みの発展に大きな影響を与えた。
戦後、軍用地跡に病院や学校などを建設、文教住宅都市へ
現在、軍用地の跡地には公共施設である病院や学校などが建てられ、軍の街から文教住宅都市へと生まれ変わった。臨海部は埋め立てられ袖ヶ浦団地、秋津団地などの大規模団地が建設されるなど東京のベッドタウンとして発展した。
市内には、JR総武線津田沼駅、JR京葉線新習志野駅、京成線の谷津駅、京成津田沼駅、京成大久保駅、実籾駅の4駅、新京成線の京成津田沼駅、新津田沼駅の2駅の計8駅がある。
1980年代以降は JR京葉線の開業によって、急速に市街化が進展し、住宅都市としてますます発展する。
なお、習志野市役所庁舎は2011年に東日本大震災の影響で耐震強度が低下したため、市庁舎を建て替えすることになり、2012年10月から別棟の市民課を除き本庁舎内の各課を市役所周辺の施設に移転させた。そのうえで以前ホテルだったビルを仮庁舎として使用していた。2017年5月、新庁舎が完成し、業務を開始した。
著:吉田 恒道(公開日:2019.12.26)