東京都中野区の特徴
― ニッポンの自治体 ―
中野駅北口で駅舎、区役所、サンプラザなどと一体化した再開発が進む
中野区域は、1872年(明治4年)に東京府の管轄となり、1932年(昭和7年)、東京市35区制が成立し、中野町と野方町が合併して中野区となる。戦後、1947年(昭和22年)、東京都22区の特別区として中野区がスタートした。
武蔵野台地に位置する中野区内には、沼袋、野方、中野、幡ヶ谷、落合の5つの台地があり、その台地の間を、江古田川、妙正寺川、旧桃園川、神田川、善福寺川の5つの河川が流れる。
東京都・中野区のマンション
2018年、東京都・中野区で販売された新築マンションは817戸。同区で販売した新築マンション相場価格は5202万円~8551万円。同区内の中古マンション相場価格は3500万円~9100万円だった。
東京都・中野区の人口は戦後1950年代から急速に増加し1965年に現在の水準に達し、1965年に37万6697人のピークとなった。その後暫減し、1995年(平成7年)に30万人まで落ち込んだが、その後僅かに増加傾向となった。2019年1月の人口は、33万1658人、総世帯数は20万4613世帯だ。
人口構成を年代別にみると、30歳代がもっとも多く、 人口の18%を占め、次いで20歳代16.4%となっている。中野区 は20歳と30歳代人口の割合が高い区といえる。
同区は、東京23区の西に位置し、新宿、杉並、渋谷、練馬に接する。面積は15.59平方キロメートルで、東京都23区部面積(621平方キロメートル)の約2.51%にあたり、23区中14番目の広さだ。
現在、住宅の狭小化、老朽化、ミニ開発や建物の中高層化 による日照、通風の問題など住生活をとりまく問題は多い。 また、住宅街の道路は、幅員4m未満が40%とされ、交通や防災の弱点とされ、改良を進めている。
中野区の住宅の特徴は、持ち家が少なく、アパート、マンションなどの民営借家が多い。
東京郊外の近郊農村から陸軍施設関連従事者住宅地へと変貌
江戸初期に徳川幕府の江戸近隣整備により、中野区域である中野郷が、中野・本郷・雑色・江古田・片山・上高田・新井・上沼袋・下沼袋・上鷺宮・下鷺宮の11カ村となった。後に本郷から本郷新田が分村され12村となる。他に江戸期中、大場、新橋の村名記録が残っている。
冒頭で述べたように明治期の1872年(明治4年)に同区域は東京府の管轄となり、1889年(明治22年)にすでに鉄道(甲武鉄道/現JR中央線)が開通。中野駅が開業した。甲武鉄道が開通すると、当時駅前だった桃園通りから市街化が進む。次いで新井薬師や堀之内妙法寺への参拝客増加などで参道商店街などが出来たものの、相変わらず地域全体は農村の風情だったとされる。
1896年(明治29年)に陸軍電信隊・鉄道隊・気球隊の施設が、次いで陸軍憲兵学校が現在の区役所付近に作られた。日露戦争後に御茶ノ水駅~中野駅間の運転間隔が10分になるなど甲武鉄道の輸送改善が進むと都市化が本格的に進展。周辺は陸軍施設の関係者が住む街となった。一方、高額所得者の別荘がある郊外住宅地としての環境が整った。
中野駅周辺の再開発が進み、駅舎そのものも周辺施設と一体整備する
中野区は東京都のなかでも屈指の住宅密集地であり、道路網都市基盤が脆弱な側面を持っていためか、商業地区やビジネス街区として発展はなかった。区全域にわたり戸建て住宅や集合住宅が密集。ほとんどが低層建築だが、環状6号および7号線や青梅街道、新青梅街道、早稲田通りなどの主要幹線道路に面したエリアでは、中高層マンションも多い。
交通インフラは、JR中央線・総武線以外にも西武新宿線のほかに丸ノ内線や東西線、都営大江戸線などの地下鉄網も横断するなど古くから東西に鉄道網が整備されている。
2000年以降、中野坂上地区再開発で超高層ビジネスタワーが複数完成し、IT関連企業の進出が進んだ。また、中野駅北側の警察学校(旧陸軍中野学校)跡地の再開発「中野四季の都市(なかのしきのまち)」開業で、早稲田、明治、帝京の各大学キャンパス、キリンホールディングス本社ビルなどが完成。2014年、中野駅の乗降客が一挙に増加、全国一の乗降客数増加率となった。今後、地下鉄東西線も乗り入れるJR中野駅の改修も急ピッチで進む。
中野区役所に隣接し利便性の高い1973年に開業した多目的ホール、中野サンプラザも2018年以降の建て替えが決まった。中野区都市政策推進室によると、この建て替えは、JR東日本と協働で、駅の改修と同時に進められ、中野区役所と一体の入場客1万人規模のアリーナやオフィスビル、ホテル、マンションが入居する複合施設となる模様だ。
著:吉田 恒道(公開日:2019.12.25)