神奈川県三浦市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
三浦一族の歴史を刻む、人・まち・自然の鼓動を感じる自然環境に恵まれた街
神奈川県三浦市は、三浦半島南端に位置する、歴史ある自治体だ。市内には古代、縄文、弥生、古墳時代の遺跡が広く分布する。
鎌倉時代初期には、和田義盛をはじめとする三浦一族が活躍し、また、この時代は三崎に、桜、椿、桃の3つの御所が開かれ、源頼朝をはじめとして多くの要人が来遊したとされる。
江戸時代には港町として賑わい、次第に漁港としての整備が進み、これが近年における遠洋漁業基地としての都市形成の基礎を築いた。
神奈川県・三浦市のマンション
2018年、神奈川県・三浦市で販売された中古マンションの相場価格は1890万円~2380万円だった。
三浦市の2019年1月現在の人口は、4万3770人。総世帯数は2万8世帯である。1996年をピークに人口減少が続く。
昭和30年1月、三崎町、南下浦町、初声村が合併して「三浦市」となり現在に至る。市の面積は、約31平方キロメートルで、県下 33 市町村のなかで、19番目の比較的小さな市だ。
三浦市内の鉄道は京浜急行電鉄の三崎口駅と三浦海岸駅が存在する。三浦海岸駅は三浦市代表する商業エリアである。周辺は1970年代に造成が進んだ新興住宅地であり、現在でも比較的若い世代が居住している。
450年におよぶ三浦一族の歴史が刻まれた地域
三浦市市域を含む三浦半島の名称の由来となった三浦一族の系譜は、中世封建時代まで遡る、一族の約450年におよぶ栄華盛衰の歴史こそ、三浦の歴史に他ならない。
源氏、北条氏そして足利氏と、鎌倉時代の全盛期、そして室町時代の滅亡に至るまでの一族の活躍と悲哀の物語は、武門の誇りと執念とが交錯した壮大なドラマだ。三浦一族終焉の地となった油壺、新井城での北条早雲との壮絶な攻防は3年にもおよび、三浦道寸や荒次郎親子の豪勇ぶりや、落城の際、道寸と将校のほとんどが油壺湾に朽ち落ちたとされる悲話が残る。
近隣、なかでも横須賀の産業構造の変化がもたらしたもの
近年、三浦市は人口構成が変化し、生産年齢者の流出が続いているとされる。三浦市内から通勤しやすい横須賀市にあった大手企業の撤退による職場環境の変化が、若い世代が他の自治体へ流出をまねき、人口構成のアンバランスを生んだとされる。事実、2000年(平成12年)には、関東自動車工業の深浦工場(横須賀市)が、2003年(平成15年)には日産自動車の久里浜工場(横須賀市)が相次いで閉鎖している。
加えて、三浦市ではこの10年で人口そのものが1割減。2014(平成26)年1年間の人口減少率は、1.57%という厳しい状況だ。同じ神奈川県の横浜市では2015年(平成27年)9月1日現在の人口は、371万9589人。これは、対前年同期比9862人増。2019年の373万6000人でピークアウトするまで人口増加が続くとされている県庁所在地の状況と大きく異なる。
こうした状況から三浦市は、神奈川県内の市の中で唯一の「消滅可能性都市」といわれている。消滅可能性都市とは、元総務大臣の増田寛也(ますだ・ひろや)氏を中心とした民間の有識者でつくる「日本創生会議」が2014年(平成26年)に発表した報告。20~30歳代の出産適齢年齢の女性人口が、2010~2040年の間に推計で5割以下になる896の自治体名を公開した。これが「消滅可能性都市」。神奈川県では、三浦市、二宮町、大井町、松田町、山北町、箱根町、真鶴町、湯河原町、清川村の1市7町1村が指摘された。
豊かな自然環境が残る、農業・漁業が盛んな街
ただし、三浦市は、日本の中央部にあり、東京湾と相模湾を分ける三浦半島の南端に位置し、三方を海に囲まれ、その南には城ヶ島がある。北は、横須賀市と接し、東には、東京湾をはさんで房総半島が望められ、西には、相模湾をへだてて富士、箱根の山々や伊豆半島を望む。南には、大島など伊豆諸島に連なる太平洋がひろがるなど、自然環境に恵まれた自治体でもある。
また、三浦市は農業・漁業が盛んな街で、主な農作物の生産はキャベツやダイコン、スイカなどで、首都圏への貴重な野菜供給地となっている。
市内の三崎港は遠洋漁業の拠点であり、日本有数のマグロ水揚げ港だ。市内の漁船数690隻、年間漁獲金額129億2994万円となっており、漁船の約8割が三崎港に所属する。
現在、同市が掲げる「第4次三浦市総合計画(三浦ニュープラン21)」では、2025年の近未来像を「人・まち・自然の鼓動を感じる都市みうら」としている。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)