神奈川県川崎市幸区の特徴
― ニッポンの自治体 ―
川崎市南東部の小さな行政区、人口密度は高いが豊かな自然も
川崎市幸区は、川崎市南東部に位置し、川崎区・中原区、横浜市の鶴見区・港北区、東京都の大田区と隣接する。区内では、幹線道路の国道1号線(第二京浜)が区域の東側を南北に縦断し、国道409号線(府中街道)が北側を東西に横切っている。鉄道はJR南武線と横須賀線が西側を南北に縦断しており、JR川崎駅、尻手駅、鹿島田駅、新川崎駅の4駅が立地する。
同区外緑部は、多摩川・鶴見川・矢上川の河川に囲まれており、人口密度が高いにも関わらず、これらの河川や二ケ領用水の水路、加瀬山の景観などによって豊かな自然に囲まれた行政区となっている。
神奈川県・川崎市幸区のマンション
2018年、神奈川県・川崎市幸区で販売された新築マンションは290戸。同区で昨年販売された新築マンション相場価格は4518万円~4976万円だった。同区内の中古マンション相場価格は2800万円~6860万円。
川崎市幸区の2019年1月現在の人口は、16万7772人。総世帯数は8万1815世帯だった。区の総面積は10.09平方キロメートルである。つまり、川崎市の行政区で人口が最も少なく、面積も最も小さい区であり、人口密度は2番目に高い。
区名の由来は、明治天皇が小向梅林に行幸した「御幸村」に
現在の幸区の区域は、1889年(明治22年)に市制・町村制が施行され、同区域は、御幸村、日吉村、住吉村に属していた。1912年(明治45年)の府県境界変更で、東京府荏原郡矢口村(現:東京都大田区)にあった古市場が、御幸村に編入され、1924年(大正13年)に、御幸村は川崎町、大師町と合併して川崎市となった。その後、1937年(昭和12年)に日吉村の一部が川崎市に編入され、現在の区域全域が川崎市となった。1972年(昭和47年)の川崎市、政令指定都市移行にともない区制が施行され、幸区が誕生した。
同区の名称の由来は、1884年(明治17年)に明治天皇が小向梅林に行幸(御幸)したことにちなむ「御幸村」の村名だという。
地形は、区域北西部に位置する加瀬山(標高約35m)とその周辺を除き高低差はあまりなく、平坦な土地が広がる。区域の外縁部は多摩川、鶴見川、矢上川に囲まれる。これらの河川や水路は、緑豊かな加瀬山とあわせて区域内に残された貴重な自然環境となっている。
明治中期から大規模工場進出の条件が整う
明治時代の中ごろまで、おもに米作農村地帯だったが、鉄道の整備や国道1号線(第二京浜)の開通、工業用水水源地の設置などで、大規模工場の進出が始まった。同時に関連する中小工場の集積、工場の勤労者向け住宅の建設が進み、工場と住宅が併存する市街地が形成され、工業都市に変貌する。
明治も後期になると工業都市「川崎」の姿がすっかり定着する。しかし、区域が多摩川、鶴見川、矢上川、にはさまれているため、毎年のように河川が氾濫し洪水に襲われる地域だった。1914年(大正3年)に県庁に堤防建設の陳情を行なう「アミガサ事件」が勃発。1919年(大正8年)に多摩川初の人工堤防が築堤され水害の危険性は激減したといわれる。
昭和に入ると南部鉄道(現:JR南武線)や新鶴見操車場が整備され、同区域の都市化、工業化は一層進む。第2次大戦後、戦災から復興し、高度経済成長期を迎えると、工場と住宅の集積はさらに進み、工場と住宅が高度に密集する市街地が形成された。
産業構造の転換で工場跡地の再開発が進行中
近年は産業構造の変化に伴い工場移転が進み、跡地に新たなハイテク産業の立地が進み、大規模なマンションなどが建設されているところも多い。また、研究開発部門などの都市型産業の立地が進み、2000年(平成12年)に慶應義塾大学の研究施設K(ケイスクエア)タウンキャンパス、2005年(平成15年)にはかわさき新産業創造センター(KBIC)が開設された。また、川崎駅前にミューザ川崎セントラルタワー、ラゾーナ川崎プラザ(東芝ビル)などがオープンして新しい都市の表情をつくり出している。
川崎駅周辺地区は開発が進み市街地が広がり、なかでも宮町・中幸町・堀川町では、商業・業務・文化施設・都市型住宅が建設され交通網が充実している。また、鹿島田駅周辺においても、大規模マンション建設など再開発事業や基礎整備が進んでいる。
著:吉田 恒道(公開日:2019.12.26)