千葉県富里市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
鉄道路線は無いものの、パーク&ライドシステムが整備されたスイカの街
千葉県富里市は、千葉県の北総台地のほぼ中央に位置する。都心から約50kmから60km圏にあり、成田空港から西に約4kmにある。東西約10km、南北約11km、総面積は53.88平方キロメートルだ。東は芝山町、西は酒々井町、南は八街市、山武市、北は成田市に接する。地勢は南北に分かれ、標高は約40mから50mの台地で、市の中央部から根木名川、高崎川などが流れる田園都市だ。
千葉県・富里市のマンション
2018年、千葉県・富里市で販売された中古マンション相場価格は1820万円。
2019年1月現在、千葉県富里市の人口は、同市の発表によると5万201人。総世帯数は2万3278世帯である。
富里市中央部には高崎川が西へ向かって流れ、北東側には根木名川が流れる。このふたつの川から枝分かれした谷津によって台地が複雑に刻まれ、緩やかな地形が形成されている。ここから、東内野遺跡、獅子穴2遺跡をはじめとする原始・旧石器時代の遺跡が多く発見されている。ただし、弥生時代の遺跡は極めて稀薄だ。
中世の富里は、鎌倉幕府の成立過程で下総国内に多くの所領を獲得し、下総国守護として圧倒的な勢力を誇った千葉氏の支配下に入った。千葉氏は分家同士が、宗家の座をめぐって紛争を続けた結果、戦国時代になっても千葉氏は戦国大名にはなれずに、後北条氏側の一武将的な存在にとどまった。その後、豊臣秀吉の小田原攻撃の際、後北条氏の滅亡とともに失脚する。
江戸時代、富里地域は広大な徳川幕府直轄の天領だった
江戸時代の富里は佐倉藩領に属し、日吉倉・久能・根木名・大和・新橋・中沢・立沢・高野の各新田は、いずれも幕府直轄の天領だった。
明治時代になり、葛飾県・佐倉県・印旛県と3度にわたる所轄の変遷を経て、1873年(明治6年)に木更津域とともに新しく設けられた千葉県域に含められた。
政府は東京の豪商に依頼して多くの窮民を集め開拓使として富里に送り込む。この時の開拓民は220戸を数え、七栄集落が成立したという。この開拓に、アメリカから牧羊家を招き、綿羊の飼育と洋式大規模農法を指導し、下総牧羊場・香取種蓄場が開設された。その結果、原野は整然たる耕地・牧場となり、これらの事業は後の宮内省管轄「下総御料牧場」として発展する。
1889年(明治22年)に市町村制が施行され、日吉倉・久能・大和・根木名・七栄・新橋・中沢・新中沢・立沢・立沢新田・高野・高松・十倉が合併して「村」を形成することになり、その名を「十三の里」(里はむらの意味)、「富里村」が誕生した。
成田空港はスイカの名産地・富里に出来たかも?しれない
第2次大戦後、官有地が民間へ払い下げられ、多くの開拓民が入植した。1962年(昭和37年)、当時の池田内閣が第二国際空港建設を閣議決定し、翌1963年(昭和38年)9月に突如「富里・八街地域設置案」が浮上。富里村はパニックに陥る。村民の大半は建設反対で、同年10月1日には、富里村空港設置反対期成同盟が組織され、以降、反対運動が活発化する。しかし、1966年(昭和41年)に政府は、空港建設地を成田市三里塚とする決定を下す。三里塚は、皮肉にも富里村の農民農村の代替地の予定だった地域だ。
富里市は2000年(平成12年)、印旛郡富里町から市制施行した新しい市である。同市では1933年からスイカの栽培が始まり、1936年に皇室に献上し、スイカの名産地として全国に知られるようになった。現在、熊本市に次いでスイカ出荷量が全国2位、富里市を代表する特産品となっている。
富里市内には鉄道路線・鉄道駅はない。隣接する成田市、八街市からの路線バス輸送がメインで、開発の進む北部一帯は交通網が整備された。市内を縦断する幹線路線は八街市にアクセスする4路線。現在、七栄新木戸地区(62.1ha)の土地区画整理事業において交通広場の整備が進む。この地区は、鉄道駅を持たない本市にとっての玄関口でもある東関東自動車道・富里ICから、約500mと好立地に位置しており、パーク&バスライド整備により市民の利便性向上と、富里市の玄関口としての公共性が高まっている。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)