兵庫県尼崎市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
阪神工業地帯の中核でかつての「工都」、再開発が活発化する住宅都市に
尼崎市は阪神広域圏に属し、大阪平野の西部にあって、兵庫県の東南部に位置する。市の総面積は50.72平方キロメートルだ。市域の東は神崎川、左門殿川を隔てて大阪市と、猪名川を挟んで大阪豊中市と接し、北は伊丹市と、西は武庫川を境に西宮市と接し、南は大阪湾に面する。
同市は2009年(平成21年)4月に中核市に移行、今年2016年に市制100周年を迎えた。兵庫県の中核市はほかに姫路市、西宮市あわせて計3市である。
兵庫県・尼崎市のマンション
2018年、兵庫県・尼崎市で販売された新築マンションは450戸。尼崎市で販売した新築マンションの価格相場は、3033万円~5785万円で、中古マンション相場価格は1680万円~5320万円だった。
2019年1月現在、尼崎市の人口は、46万3186人で、総世帯数は23万3411世帯。兵庫県で4位の人口だ。1970年(昭和45年)に人口55万4000人のピークを迎え、その後減少傾向が続く。
交通の要衝「あまがさき」、近代には有数の工業地帯に成長
尼崎エリアは、猪名川と武庫川というふたつの大きな河川と海、豊かな農作物を生み出す大地に恵まれ、原始から人が定住しはじめた。やがて、古代から中世にかけては、大和・難波・京といった政治・経済の中心地と、西国・瀬戸内を結ぶ海陸交通の要衝として発展した。近世には、大坂の西の備えの城下町として発展。明治以降近、日本有数の工業都市として成長した。
尼崎は、鎌倉・室町期の記録では「海士崎」「海人崎」「海崎」とも書かれており、いずれも読みは「あまがさき」と考えられる。「あま」という言葉は、古代中世において広義で漁民・海民を意味しており、「さき(崎)」は岬にも通ずる言葉で、漁民や海民が住む海に突き出た土地というのが、地名の由来と考えられている。
近代になり、1874年(明治7年)、官設鉄道が大阪~神戸間で開通。現在のJR尼崎駅も開設した。1891年(明治24年)には尼崎~伊丹間を結ぶ川辺馬車鉄道が開通し、のちの摂津鉄道・阪鶴鉄道を経て、現在のJR宝塚線となった。さらに1905年(明治38年)に阪神電気鉄道本線、1920年(大正9年)に阪神急行電鉄(阪急電鉄)神戸線・伊丹支線、1926年(昭和元年)に阪神国道(国道2号線)が開通するなど、交通網が次々と整備され充実した。
急激な工業都市化から幾つもの弊害が生まれる
先の大戦後、尼崎は商店街の再建から始まり、杭瀬・出屋敷などの商店街が活気を取り戻し、空襲によりかつての面影を失った本町通商店街の多くの店が移転した。1947年(昭和22年)に園田村が尼崎市に合併し現在の尼崎市域となった。
当時に阪神工業地帯の中核を担う工業都市となり、「工都」と呼ばれたが、1960年代から70年の高度成長期以降、地盤沈下に加えて大気汚染や河川水質汚濁、騒音等の公害問題が深刻となるなど、急速な都市化の弊害がさまざまな形であらわれた。さらに1973年(昭和48年)の第1次オイルショック以降、日本経済の構造変化が進むなか、それまでの尼崎の工業地帯も大きな転換をせまられ、工場の転出や閉鎖、人口の減少など、都市としての活力の停滞を余儀なくされていきた。
現在、市南部に工業地域、中南部には商業地域、そして市中部から北部にかけて住宅地が広がる。南部の海岸地区は、かつて阪神工業地帯の中心地で埋立地が多い。
1980年代から90年代にかけて、都市環境の整備・保全や市民福祉の充実、産業構造の転換など、時代の要請に応じた取り組みが進む。1995年、阪神淡路大震災からの復興もまた大きな課題となった。
バブル崩壊後の失われた10年を経て進む再開発
バブル崩壊後の失われた10年以降、市南部の再開発事業が進められ、高層タワーマンション群や大規模商業施設が多くみられるようになった。
JR尼崎駅北側では、キリンビール工場跡地や貨物ヤード跡地を含めた大規模再開発事業によって、広域的な集客力のある商業施設「COCOE(ココエ)あまがさき緑遊新都心」などが整備された。また、駅前特区では、民間開発事業者による商業・業務施設、アミューズメント施設、良質なマンションなど都市型住宅の計画・開発・建設が進んでいる。
余談になるが、尼崎市全域の電話市外局番は大阪市周辺と同じ「06」である。理由は、大阪市との結びつきが強い「工都」尼崎市が、1954年(昭和29年)の市外局番適用の際に尼崎市も大阪市内と同じ通話料金で利用できるようにとの日本電信電話公社(当時の電電公社)の配慮だったとされえる。が、これには、尼崎市が工事費の負担として電電公社から当時としては破格の約2億円もの電信電話債券を引き受けることが条件だったとされる。
著:吉田 恒道(公開日:2019.12.26)