神奈川県横浜市瀬谷区の特徴
― ニッポンの自治体 ―
かつての養蚕業の街、そして戦前の軍都は、1950年代以降住宅都市に
横浜市瀬谷区は、神奈川県のほぼ中央部、横浜市の西端に位置し、区域は大和市との境界である境川に沿って南北に細長く5本の川が流れる。北部は東京都町田市、横浜市緑区、南部は同市泉区、東部は同市旭区に接している。東京都心から約40km、横浜市中心部から約15kmの距離となる。
瀬谷区内の鉄道は相模鉄道本線があり、瀬谷駅から横浜まで20分、新橋まで48分と都心へのアクセスは悪くない。
横浜市・瀬谷区のマンション
2018年、神奈川県・横浜市瀬谷区で販売された新築マンションは67戸で、相場価格は不明。中古マンション相場価格は1820万円~3220万円。2019年1月現在、横浜市瀬谷区の人口は、12万4048人。総世帯数は5万6007世帯だった。同区総面積は17.11平方キロメートルである。
かつて養蚕で栄えた、相模野の面影が残る自然豊かなエリア
瀬谷区は昔ながらの相模野の面影を色濃く残し、南北に流れる5本の川に沿って、豊富な動植物相に恵まれた良好な緑地が多く残されている。横浜市のなかで希有な水と緑に恵まれた環境といえる。和泉川では人や生き物にやさしい「ふるさとの川整備事業」が進み、川辺と樹林が一体となった光景は区を象徴するもの。その一方で、都市化も進行しており、残された貴重な水と緑の保全が、同区の重要な課題となっている。区内の緑被率は35.9%で、横浜市平均の31.0%を上回っており、自然環境が豊かな街といえる。
現在の瀬谷区に当たる地域は、明治時代には鎌倉郡に属する農村地帯であり、養蚕業が盛んに行なわれ、区内には桑畑が多かったという。当然、製糸業者も多くあり、上瀬谷の野鳥館、中屋敷の石井製糸場。本郷の川口製糸場(後の本郷館)、北村の小沢製糸場。新道の守屋製糸場、下瀬谷の仙田製糸場などがあった。ただ、多くは昭和初期までに廃業している。区内最大の製糸工場は、1960年(昭和35年)頃まで営業していた本郷館である。
横浜に編入後に軍都となるも、戦後は急速に住宅都市に変貌する
その後、区域の村の統合などを経て、1939年(昭和14年)に横浜市に編入。戦時中は区内のいくつかの土地が軍に強制収容され軍用地となった。上瀬谷(横須賀海軍資材集結所・第二海軍航空廠補給工場・横須賀海軍軍需部火薬庫)、本郷(海軍施設部家屋)、南台(兵器工場=大日本兵器(現コマツNTC)第五製作所、航空鉄砲弾を主として製造)などである。
瀬谷は戦中、疎開先ともない横浜中心部から学童が疎開をし、1944年(昭和19年)、1945年(昭和20年)、一時的に人口が増えた。戦後、上瀬谷軍施設はそのまま米軍に接収され、南台は米軍の通信基地にされようとしたが、住民の反対運動で回避、土地は相鉄、三菱を介し横浜市に売却され市営のアパートになった。
その後、1950年代から公営住宅が相次いで建設され宅地化が進む。人口が急増し郊外の住宅都市に変貌した。1969年(昭和44年)10月の行政区再編成によって瀬谷区が誕生した。
区の産業としては、92万平方メートルと市内最大の上瀬谷農業専用地区があり、「瀬谷うど」や「さつまいも」栽培などの農業が盛んだ。
また、商業施設は三ツ境駅及び瀬谷駅周辺に立地しているほか、丸子中山茅ヶ崎線や環状4号線など幹線道路の開通に伴い、沿道における商業立地も進んだ。さらに、東名高速道路横浜町田インターチェンジに近接した北部地域には、浜総合卸センター(卸本町)や横浜インナーパーク(北町)などの工場団地があり、物流施設や工場などが集積しているが、近年は、住宅など他の用途への土地利用転換が進んでおり、周辺環境との調整が課題となっている。
著:吉田 恒道(公開日:2019.12.26)