兵庫県三田市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
1985年以降、ニュータウン開発で急速に発展した大阪・神戸の衛星都市
三田市(さんだし)は、兵庫県の南東部に位置し、神戸市の市街地より六甲山系を越えて北へ約25km、大阪市より北西へ約35kmにある田園都市だ。北は篠山市、東は宝塚市、猪名川町、南は神戸市、西は加東市、三木市に接する。
1980年代から後述する住宅団地などの開発、JR福知山線の複線電化など利便性向上で、大阪・神戸の衛星都市として急速に発展した街だ。
兵庫県・三田市のマンション
2018年に兵庫県・三田市で販売された新築マンションの相場価格は3542万円~3558万円。三田市で販売された中古マンション相場価格は1050万円~2870万円である。東京港区に同じ表記の三田(みた)があり、関東人には「さんだ」とは読みにくい。メガバンクの支店名でも“三田市”の支店は、東京港区の三田支店と混同を避けて、あえて平仮名の「さんだ支店」を名乗る。
2019年1月現在、同市の人口は11万2806人で、総世帯数は4万6173世帯である。1958年の市制施行時の同市の人口は3万人あまりで、その後も横ばいだった。しかし、1985年から北摂三田ニュータウン開発が始まったことにより、人口が急激に増加し、10年連続で兵庫県はおろか日本一の人口増加を記録した。現在、市の総面積は210.32平方キロメートルである。
南北朝時代に「三田城」が立てられ、以降の地名の由来に
この地域で人々が暮らし始めたのは旧石器時代とされ、広野地区の溝口遺跡から2万5千年前のナイフ形石器、石鏃などが発掘されている。
奈良時代には現在の屋敷町周辺に、のちの金心寺につながる寺院が建立された。門前には「街」が形成されたと伝えられる。
南北朝時代には「三田城」の名称が記録として残っており、このころに「三田」の地名や拠点となる城郭が同地域にあったと考えられている。
戦国時代以降の三田は、城郭を拠点とする政治の中心地となり、同時に周辺の豊かな農村地域から供給される米や材木などの集散地として、流通・経済の要衝としても発展した。
江戸時代には三田藩九鬼氏および麻田藩青木氏の支配となり、三田の町は三田藩3万6000石の拠点として発展。さらに、明治以降は郡役所の設置や鉄道の開通などにより、当時の有馬郡の中心地として発展をとげた。
神戸・宝塚に隣接するかつての農村は、ニュータウン開発で田園都市に
1956年(昭和31年)、藍村と本庄村が合併して相野町が成立、次いで、三田町、三輪町、広野村、小野村、高平村が合併して三田町が誕生。1957年(昭和32年)に三田町が相野町を編入し、さらに翌1958年(昭和33年)7月に市制を施行し現在に至る。
神戸市や宝塚市などに隣接し、かつては神戸牛の放牧場や農業地帯だった。が、JR福知山線の複線電化により、1980年代に阪神間のベッドタウンとして北摂三田ニュータウンが開発。同ニュータウンにはフラワータウン、ウッディタウン、カルチャータウン、三田テクノパークの4つの団地が設置され人口が急増した。現在、その人口の増加は落ち着きを見せているが、ニュータウンの人口は三田市人口の半分を占めている。
どちらかというと大阪市との結びつきが強く、三田市から大阪市へ通勤している市民が多い。現在でも自然豊かな農村と住宅都市としてのふたつの顔を持つ田園都市である。
三田市の鉄道駅の中心は、JR西日本・福知山線と神戸電鉄が乗り入れ、おもな商業施設が集まる「三田駅」である。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)