埼玉県さいたま市浦和区の特徴
― ニッポンの自治体 ―
さいたま市10区でもっとも人口密度が高い、県内随一の文教住宅都市
さいたま市浦和区エリアは、さいたま市南部に位置し、中央部北側に位置する浦和区の区域は、おおむね旧浦和町と木崎地区に相当する。同エリアは、江戸時代に江戸と京都を結ぶ重要な道路として中山道が整備されることで発展した街だ。浦和は日本橋から数えて3番目の宿駅で、本陣や問屋がおかれ、宿場町として繁栄した。
1871年(明治4年)に埼玉県が成立し、宿場町だった浦和宿は、県庁所在地となり、1889年(明治22年)に浦和町として町制を施行。行政・教育・文化の上でも県の中心地となった。 1923年(大正12年)の関東大震災後は、地震の災害が少なかったこと、首都圏から20kmの都心へのアクセスのよさなどから、住宅地としての評価が高まり、多くの文化人が移り住んだ。なかでも「鎌倉文士と浦和画家」といわれ、多くの芸術家が居を構えた。
1934年(昭和9年)、市制施行となり、戦後は住宅都市・文教都市として発展を遂げた。 2001年(平成13年)5月にさいたま市が誕生し、2003年(平成15年)4月にさいたま市が政令指定都市へ移行し、浦和区が誕生した。
埼玉県・さいたま市浦和区のマンション
2018年、埼玉県・さいたま市浦和区で販売された新築マンションは700戸。同区で販売した新築マンション相場価格は4355万円~6362万円だった。同区内の中古マンション相場価格は2100万円~6370万円。
2019年1月現在、さいたま市・浦和区人口は、浦和区の発表によると16万2097人。総世帯数は7万3312世帯だ。
浦和区の面積は11.51平方キロメートルで、さいたま市10区のなかで中央区に次いで狭い。そのため人口密度は1万3746人/平方キロメートルとさいたま市のなかでもっとも高い。ちなみに人口密度が低い区は岩槻区で2270人/平方キロメートルだ。
埼玉県屈指の文教都市「浦和」
先の大戦後も東京都心への通勤の利便性から同区エリアの人口は増え続け、1945年(昭和20年)に9万3696人だった浦和市人口が1975年(昭和50年)には33万1145人に膨れ上がった。浦和は県政・文化の中心地であると共に大卒者の比率も高く、東京都心部へ通勤する埼玉都民のベッドタウン的性質もより濃くなっていった。
そして、浦和市は住宅都市・文教都市として発展を遂げる。国内屈指の進学校である公立高校・浦和高校をはじめ、国内最古の公立女子高校・県立浦和第一女子高校があり、浦和は県内屈指の文教都市とされる。
2001年(平成13年)5月、冒頭で記したように“平成の市町村大合併”の一環から、大宮市などと合併してさいたま市が誕生。2003年(平成15年)4月、念願の政令指定都市へ移行にともない、旧浦和市は4つの区に分割され浦和区が誕生した。旧浦和市のその他の区は、緑区、桜区、南区。
現在、埼玉県庁やさいたま市役所が置かれる行政の中心地であり、近年では浦和駅周辺地区を中心に超高層マンションや商業施設などの再開発、道路整備が進む。区外周部となる常磐や岸町は、埼玉県屈指の高級住宅地だ。都市改造の一環として1981年(昭和56年)には浦和駅西口に再開発ビル(浦和コルソ)が建設、駅前広場が拡張され、浦和駅西口には、現在県下で最大の売上高を誇る百貨店、伊勢丹浦和店がある。2007年(平成19年)に浦和駅東口に浦和パルコが開店した。また、浦和駅西口南再開発地区では27階の高層タワーマンションを含んだ商業施設を中心にした再開発も進んでおり2020年(平成32年)に完成予定だ。
埼玉県を代表する高級住宅街「うらわ」
浦和区エリアが住宅地として注目されるようになったのは、1923年(大正12年)の関東大震災以降のことだ。
大震後、浦和は東京や横浜からの移住者で一気に3000人以上の人口増加が起こる。年率で25%の増加率であったという記録も残る。とくに鹿島台エリアである別所沼周辺には、富裕層や官僚などの富裕層以外にも画家の移住やそのアトリエが目立ったため、鎌倉の鎌倉文士という言葉と対となる“浦和画家”という言葉が生まれた。昭和初期には40人以上の画家が居住し、「さながら絵描き村である」とも言われた。現在、同エリアは県内屈指の高級住宅街。
現在、うらわ美術館や青少年宇宙科学館などに代表される芸術・文化施設充実しているのも同区の特徴だ。現在でも都心から近い閑静な好立地が幸いして住宅地の人気を保ち続けている。2015年のJR上野・東京ラインの開業などにより東京駅や新宿駅への所要時間が25分と利便性が高まり、超高層タワーマンション開発などで住宅開発が活性化している。
著:吉田 恒道(公開日:2019.12.26)