埼玉県鶴ヶ島市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
昭和30年代からの企業誘致で、産業・住宅都市としてバランスした街
埼玉県鶴ヶ島市は、埼玉県のほぼ中央、都心から約45kmの圏内にあり、坂戸市、川越市、日高市と接している。東西約6.9km、南北約4.9kmで、総面積は17.65平方キロメートルの自治体だ。
かつては畑・田・林が大部分を占めていたが、高度経済成長期以降、人口の流入が著しく、現在も宅地化・商業地化が進展しつづけている。川越市・坂戸市とつながる連続した市街地が形成される。
東武東上線、東武越生線が市域を縦断し、関越自動車道と首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の鶴ヶ島ジャンクションがある。東武鶴ヶ島駅から池袋まで約40分(急行利用)の距離である。
埼玉県・鶴ヶ島市のマンション
2018年、埼玉県・鶴ヶ島市で販売された新築マンションは8戸。同年、同市内の中古マンション相場価格は1470万円~2800万円だった。
2019年1月現在、鶴ヶ島市の人口は、同市の発表によると7万144人。総世帯数は3万1095世帯だった。1970年代は、年に10%弱の人口増加をみせたものの、現在は1%以下に落ち着いている。
古くから人々が暮らした地域は、江戸の開発で急速に発展した農村
「鶴ヶ島」の名称の由来は、遠い昔、広い水田の中にひとつの島(小高い所)があり、そこに男松、女松が生えており、この相生(あいおい)の松に鶴が巣ごもり、縁起のよいことが重なったことから鶴ヶ島と名付けられ、それが村名(当時)の発祥だと伝えられている。
鶴ヶ島市域に人々が暮らし始めたのは、発掘調査などによって2万5000年前の旧石器時代だということが分かっている。縄文時代、市内を流れる飯盛川と大谷川など水源付近に集落ができていたこともわかっている。
弥生時代を経て古墳時代なって松ヶ丘に古墳が造られ、農耕を中心とした小規模な集落がうまれた。奈良・平安時代の遺跡群は数多く残っており、市域には多くの集落があった。
鎌倉時代以降、日本の各地で蔵武士の活躍が活発化し、小田原北条氏が関東一円を支配し、市域の各村々もその勢力下に入る。
江戸時代になると川越藩領、旗本の知行所、幕府の直轄領となり、川崎平右衛門定孝による大規模な新田開発が行なわれた。その陣屋が高倉に設けられた。市域でも次々に耕作地が開かれ、現在の鶴ヶ島の基礎が築かれた。
明治9年になって、同市は現在の埼玉県に属する。1889年(明治22年)4月。全国の町村制施行により、当時の12カ村2新田が合併して鶴ヶ島村が誕生した。鶴ヶ島村は純農村地帯として栄えた。
高度成長期、企業誘致が奏功して純農村から脱皮
1954年(昭和29年)、工場誘致条例の施行により企業進出が始まり、高度経済成長の波に乗って人口の増加も加わり、1966年(昭和41年)4月、単独で町制を施行。その後も、首都圏からの通勤・通学圏として人口が増加し、他市町と合併なしに1991年(平成3年)9月に鶴ヶ島市として市制を施行しました。
現在の鶴ヶ島市は、従来の純農村地帯のイメージから脱却し、自然と産業が調和した都市へと大きく変貌した。今後は、関越自動車道と首都圏中央連絡自動車道(圏央道)のインターチェンジとジャンクションがある道路交通の要衝、東武東上線によって都心アクセスが容易な地理的条件を活かした衛星都市となった。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)