埼玉県狭山市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
ホンダの企業城下町ともいえる埼玉県有数の工業都市、そして住宅都市
埼玉県狭山市は、1954年(昭和29年)7月、1町5カ村が合併し、埼玉県下で15番目の市として誕生した。東京都心より40km圏の県南西部に位置し、武蔵野台地の豊かな緑と入間川の恵みを受けた住宅都市であり、県下有数の工業都市としても大きく発展してきた。
面積は48.99平方キロメートル、形はおよそ菱形をなし、東部を川越市に、北部を川越市・日高市に、西部を入間市・飯能市に、南部を所沢市にそれぞれ接する。中西部には、9割が市域となる航空自衛隊入間基地がある。
埼玉県・狭山市のマンション
2018年、埼玉県・狭山市で販売された新築マンションは84戸。同市内の中古マンション相場価格は1750万円~2940万円だった。
2019年1月現在、埼玉県狭山市の人口は、同市の発表によると15万1661人。総世帯数は6万8798世帯だ。近年、高度成長期に狭山市へ転入した世代が高齢化する一方で、新規転入者は減少。2005年国勢調査では鳥取県を上回る社会人口減少率を記録した
現在の狭山市エリアは、1871年(明治4年)の廃藩置県により、現在の埼玉県域には埼玉県と入間県が誕生。狭山市域を含む入間県は管下の村々を大小区制によって統治することとし、11の大区と91の小区を設けた。狭山市域の村々は第3大区5小区から7小区、第4大区2小区と3小区に含まれた。この行政区域は、現在の狭山市とは大きく異なり、川越市、所沢市、飯能市、入間市を含む大きな地域だった。
1889年(明治22年)に全国的に市町村制が施行され、狭山市域には入間川、入間、堀兼、奥富、柏原、水富の6カ村が誕生。入間川村は1891年(明治24年)8月に町制を施行し入間川町となった。
そして、冒頭で記したとおり、入間川町、入間村、堀兼村、奥富村、柏原村、水富村の1町5カ村の合併で、狭山市が誕生する。
積極的な企業誘致によって県内随一の工業都市として発展
高度成長期の1960年代に、川越・狭山工業団地(新狭山地区)で次々に企業の操業が始まる。70年代には、狭山工業団地(上広瀬・柏原地区)でも操業が開始され、両工業団地の整備で狭山市の工業は飛躍的な発展、1982年に製造品出荷額が埼玉県でトップとなった。
ホンダの工場が立地することで企業城下町として知られるが、業種が異なるコーセーやロッテ、大日本印刷などの大規模な工場が進出している。
また、「狭山茶」という特産品があるため、首都圏のベッドタウンでありながら、農業も比較的盛んな街でもある。これら総合的に豊かな産業を有するため、狭山市の財政は余裕があるとされている。
工業団地の開設と同時に、狭山台団地が造成、入居が開始され、次いでつつじ野団地の入居も始まり住宅都市としても発展する。1978年(昭和53年)には、狭山市の街づくりが評価され、埼玉県による「文化行政モデル市」の指定を受けた。
鉄道網、道路交通網ともに充実した街「さやま」
翌1979年(昭和54年)、西武新宿線入間川駅が狭山市駅と改称となり、市の玄関としてふさわしい名称となった。
現在、市内には、西武新宿線の狭山市駅、新狭山駅、入曽駅と西武池袋線の稲荷山公園駅の4駅がある。市の中心に位置する狭山市駅は特急電車「小江戸号」の停車駅であり、狭山市から新宿までは約40分、また池袋へは、西武池袋線の所沢駅から乗り換え時間を含めても最短で約40分でアクセスが可能だ。さらに、西武池袋線が「東急東横線」、「横浜高速みなとみらい線」との相互直通運転を開始し、神奈川県横浜方面へのアクセスが格段に向上した。
2012年、西武新宿線の狭山市駅西口地区再開発整備事業が完了した。
圏央道の完成で道路交通も充実した。神奈川県横浜市、厚木市、東京都八王子市、茨城県つくば市、千葉県成田市、木更津市などの主要都市を連絡するとともに、東京から放射状に延びる東名高速、中央道、関越道、東北道、常磐道、東関道等の高速道路と接続、首都圏の広域幹線道路網を形成する延長約300kmの環状の高速道路。市内の「狭山日高インターチェンジ」から、都心へスムーズにアクセス可能だ。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)