埼玉県東松山市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
高度成長期に東京の衛星都市・ベッドタウンとしても発展した工業都市
埼玉県東松山市は、関東地方の中央に位置する埼玉県のさらに中央に位置する。緑豊かな丘陵地域で、東武東上線池袋駅から高坂駅まで急行を利用で50分、東松山駅まで急行を利用して55分と、都心までのアクセスの良さも併せ持った住宅都市だ。
1954年(昭和29年)7月、埼玉県で12番目、全国で398番目の市として市制施行された。市名は、松山部会町村合併連絡協議会で、「松山市」に決まったが、「松山市」では四国の松山市と混同のおそれがある(自治省)ため、改めて、市名を決定することになり、「東松山市」に決定した。市域総面積は、65.35平方キロメートルである。
埼玉県・東松山市のマンション
2018年、埼玉県・東松山市で販売された中古マンション相場価格は1400万円~2380万円だった。
2019年1月現在、埼玉県東松山市の人口は、同市の発表によると9万290人。総世帯数は3万9910世帯だ。
現在の市域中心部のエリアは市制施行前まで松山町と呼ばれ、1333年に築城されたとされる松山城の城下町として発展した街だ。城下町時代は松山城大手門に至る鴻巣道沿いの現在の松本町から本町付近が、賑わっていたとされ、松山新宿と呼ばれていた。一方、街道筋にあたる本町から材木町のあたりは松山本郷と呼ばれていた。現在の本町1丁目交差点は札の辻と呼ばれ、高札場が設けられていた。
江戸時代に賑わった宿場町は、明治以降に整備された交通網を背景に発展
江戸時代、幕府によって街道整備が進められ、江戸から高坂を経て常習に至る川越児玉往還(川越道)と高坂・松山を経て日光に至る日光脇往還が整備され、松山宿と高坂宿は宿場町として大いに賑わったという。
明治に入ると入間県、熊谷県を経て埼玉県に属し、旧松山陣屋士族が中心となって松山製糸工場(後の日本シルク)など工場や銀行などの企業が起こされた。
1883年に現在の高崎線が開通し、1903年に松山町を通る東上鉄道(現在の東武東上線)の計画が発表され、1923年に念願の武州松山駅が開業した。市域には高坂駅と武州松山駅(現在の東松山駅)のふたつの駅が設置され、交通網も整えられていった。
先の大戦を控え、唐子地区に陸軍松山飛行場が建設され、また吉見町の吉見百穴近辺では中島飛行機(現在のSUBARU)の地下工場が建設され、軍関連工事関係者が多く集まる軍事色が濃い街となった。
戦後高度成長期、東京の衛星都市・ベッドタウンとして成長
戦後の1957年(昭和32年)、埼玉県下12番目、県内の東上線沿線では川越市に次いで2番目の市として市制施行を行ない、東松山市となった。
高度成長期になると東京の衛星都市・ベッドタウンとして交通の便がよい東松山駅や高坂駅周辺を中心に人口が増加した。高坂ニュータウンや東松山マイタウンに代表される住宅団地が次々に開発される。
先に述べたように明治以降、旧松山陣屋士族によって松山製糸工場に代表されるような企業が盛んに起業した。重工業分野でも1940年(昭和15年)、ヂーゼル機器(現在のボッシュ)が工場を建設。現在でもボッシュ東松山工場は、同社の日本国内における中心的な工場で、この工場の誕生によって自動車機器などのボッシュ関連会社が市内に多く設置され、同市の経済に大きく関わることになった。
1975年(昭和50年)、関越自動車道東松山ICが完成。付近に東松山工業団地が建設され、交通アクセスを活かし工場進出が進んだ。同市は埼玉県のほぼ中央で県内各地に向かう幹線道路が集まる場所であり、また広域アクセスにおいても関越自動車道に加え、圏央道にも近く、近年、物流拠点を開設する企業が目立っている。
2012年から葛袋地区に造成中の東松山葛袋産業団地(仮称)の分譲が好評なことから、市はさらに、今後5年間で石橋、松山、宮鼻、大谷地区に工業団地を新設すると発表した。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)