埼玉県幸手市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
江戸時代の大治水事業で発展した首都近郊の田園都市、コンパクトシティ
埼玉県幸手市は、埼玉県の北東部にあり、市域は東西8.8km、南北7.6kmで、総面積は33.93平方キロメートルだ。市役所を規準に東経139度43分、北緯36度04分に位置している。
地形は極めて平坦で、標高が最も高い地域で15.9m、最も低い地区でも4.7mとなり、標高差はわずか11.2mしかない。
地勢は古東京湾の一部が陸地化したもので、東端には下総台地の一部があるものの、ほかは沖積低地で、利根川と渡良瀬川の氾濫によって形成された粘性土の沖積層がほとんどだ。幸手市は、こうした土地に成立するコンパクトな田園都市だ。
埼玉県・幸手市のマンション
2018年、埼玉県・幸手市で販売された中古マンションの相場価格は1330万円だった。
2019年1月現在、幸手市の人口は、同市の発表によると5万1338人。総世帯数は2万2684世帯だった。
すでに縄文時代から人々が暮らしていた「さって」
いまから約8000年~6000年前、いわゆる縄文時代に、すでに幸手には人が住み、狩猟・採集生活を送っていたことが、槙野地の遺跡の出土品などからわかっている。大和朝廷時代になると幸手を含めた関東に、その影響力が波及し、日本武尊が東征に際して「薩手が島」に上陸、田宮の雷電神社に農業神を祭ったという言い伝えが残る。
鎌倉時代から戦国時代にかけて奥州路の拠点、高野の渡を擁し、鎌倉街道が通っていた幸手は軍事・交易上でも交通の要衝となった。源頼朝、義経、静御前、西行法師などが幸手に足跡を残している。幸手の名称はこのころから使われ、1599年(慶長4年)、当地にあてた手紙に「幸手領幸手町」とあり、一般的に使われるようになったと考えられている。
江戸時代、街道整備・大治水事業で交通と舟運を利して発展した街
江戸時代になると幸手は交通の要地としてさらに発展する。五街道のひとつ日光街道(奥州街道)と徳川将軍家が日光参詣に使った日光御成道が合流し、さらに筑波道が分岐する宿場町として栄えた。街道が整備され参勤交代や交易の往来が盛んになり、現在の市街地の基礎ができてきた。
また、大治水事業として利根川の付け替え工事が行なわれると、権現堂川、江戸川を中心とした舟運が盛んになった。同時に新田開発の進展にともなって、権現堂河岸、関宿向河岸に回船問屋が立ち並ぶようになったという。
明治になり1889年(明治22年)、政府による全国市町村制が施行され、幸手町が施行される。戦後、行幸村・上高野村・吉田村・権現堂川村・八代村や桜田村と豊岡村の一部との合併、編入、分離を経て、1956年(昭和31年)に幸手町が誕生。1986年(昭和61年)に市制を施行し、現在のコンパクトシティ・幸手市となった。
市の西寄りを南北に1929年(昭和4年)に開業した東武日光線と国道4号線が縦断しており、東武幸手駅とその東を走る旧日光街道、国道4号を中心に住宅地を中心とする市街地が広がる。また、市域南西部の国道4号線沿いに郊外型店舗が出店している。
市の中心駅は幸手駅だが、市内の幸手駅を使用せず東武伊勢崎線が通る東武動物公園駅を利用する住民も多い。また市の北西部(香日向地区等)の最寄り駅は久喜市の東鷺宮駅、市の南西部(栄地区等)の最寄り駅は杉戸町の杉戸高野台駅である。
高速道は首都圏中央連絡自動車道(圏央道)が2015年に開通し、幸手インターチェンジが供用できる。市は、このインターチェンジ周辺で工業団地を造成、企業誘致を図っている。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)