東京都武蔵村山市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
かつて、プリンス自動車~日産の大規模工場城下町、悲願の鉄道駅開業
東京都武蔵村山市は、都下市町圏のほぼ中央に位置し、西は瑞穂町、南は立川市、東は東大和市、さらに北部は狭山丘陵をはさんで埼玉県所沢市に隣接する。同市を象徴する狭山丘陵は、市北部を西から東へ続き、この丘陵には村山貯水池(多摩湖)、山口貯水池(狭山湖)、さらに市民の広場、都立 野山北・六道山公園及び市立野山北公園がある。
市内を東に流れる空堀川は、東村山市で新川岸川に合流し、荒川に流れ込む。丘陵のふもとから南へかけて次第に低くなり、市街地と茶、野菜、果樹園などの畑がある。
道路は古くから発達し、青梅街道、新青梅街道、江戸街道などが主要道路として市内を走っている。
東京都・武蔵村山市のマンション
2018年、東京都・武蔵村山市で販売された中古マンションは2030万円。武蔵村山市の2019年1月現在の人口は、7万2546人で、総世帯数は3万1640世帯である。
武蔵野台地の西辺は、古くから村山郷と呼ばれていた。「村山」という地名の狭山丘陵の峰々を指した「群山(むれやま)」が訛って「村山」になったという説が有力だ。
「村山」の名前が初めて歴史上に出現したのは、平安時代末期に登場した武蔵七党のひとつ「村山党」だ。この村山党は、狭山丘陵の生産力を背景にした武士団で、「村山三里」という丘陵の南側が地形的に守りやすいことから、この地を本拠としたと言われる。
村山の各村は、1889年(明治22年)に中藤村ほか3カ村組合として発足した。その後の変遷を経て、1917年(大正6年)4月、各村は合併してひとつの村となり、村山村」と命名した。
1954年(昭和29年)11月に町制が施行、さらに1970年(昭和45年)11月に市制施行なり、現在の市域となった。この結果、東京から北多摩郡が消滅した。
市制施行にあたり、市名は「村山市」とするはずだったが、山形県に同名の市があったため、武蔵野の「武蔵」を冠して「武蔵村山市」となった。
武蔵村山市の地域経済を象徴した日産工場は巨大ショッピングモールに
武蔵村山市の地域経済発展の象徴だった「日産自動車武蔵村山工場」は、カルロス・ゴーン社長のコストカット戦略「日産リバイバルプラン」の一環で、2004年までに巨大なテストコースを含む全工場が閉鎖された。かつて、この工場は1966年に日産に合併吸収される前のプリンス自動車の主力工場であり、日本グランプリでレーシング・ポルシェと首位を争った名車、初代スカイラインやグロリアを生産していた。合併後の日産の主力工場だった。
跡地には、2006年に、ダイヤモンドシティ立川・武蔵村山ショッピングセンターが建設。その後、運営会社のダイヤモンドシティがイオングループと合併したことに伴い、「イオンモールむさし村山ミュー」に改称、さらに現名称「イオンモールむさし村山」となった。
開店当初は、百貨店の三越ほか180店舗の専門店、GMSのジャスコが出展する、ひとつのショッピングモールにふたつの大型店を配する形態(2核1モール)だった。ただし、売上面で苦戦した三越は2009年3月に撤退。しばらくテナントが誘致できず、2009年11月に家電量販店ノジマ、大手アパレルのワールドが展開するFLAXUS(フラクサス)、スポーツ用品専門店のVictoria(ヴィクトリア)などが出店して、「ノースタワー」としてリニューアルオープンした。
武蔵村山市は東京都の市として鉄道と国道が走っていない唯一の自治体だ。現在、東大和市の上北台駅まで開通している「多摩都市モノレール」延伸計画があり、国土交通省交通政策審議会の答申で「2015年度までに着工することが適当な路線」と位置づけられているが具体的な計画には至っていない。なお、武蔵村山駅の用地は確保されている。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)