京都府京都市伏見区の特徴
― ニッポンの自治体 ―
地域産業「伏見の酒」が街を急成長させた城下町の風情を残すエリア
京都市の南東部に位置する伏見区には、桂川、宇治川など主要な河川が流れ、古くから伏見港などを中心に水運の拠点として栄えた地域だ。かつて「伏水」と表されたように、良質な地下水が豊富なエリアとして知られる。
この地下水を活かして酒造業が発達し、全国有数の生産量を誇る伏見の代表的産業となっている。また、農業も耕地面積が京都市内第1位であり、米、野菜、花きなどが生産され、京都市近郊農業地域として農産物を供給する拠点となっている。
京都府・京都市伏見区のマンション
2018年に京都府・京都市伏見区で販売された新築マンション数は不明。新築マンションの価格相場は3138万円~4077万円で、中古マンション相場価格は1540万円~4550万円だった。
2019年1月現在、伏見区の人口は、27万5658人。総世帯数は13万7318世帯である。面積は61.62平方キロメートル。
京都市伏見区は、1931年(昭和6年)に伏見市、深草町、醍醐村など9市町村と京都市との合併・編入によって誕生し、1950年(昭和25年)に羽束師村、久我村を、1957年(昭和32年)に淀町を編入し、現在に至っている。京都市内最大の約28万人の人口を擁する行政区であり、政令指定都市のなかでも横浜市港北区、同市青葉区、岡山市北区、福岡市東区、仙台市青葉区に次いで6番目に人口の多い行政区だ。
人口が多いことや区域が広いことで、区域内での繋がりは必ずしも深くはないことなどから、分区構想がたびたび出ている自治区である。
明治中期に琵琶湖疏水建設などで産業都市へと飛躍する
1890年(明治23年)に琵琶湖第一疏水が完成した。続いて、1894年(明治27年)に鴨川運河が完成、人や物資を乗せた船は鴨川夷川から鴨川東岸を南下、伏見堀詰町で伏見城の外堀(濠川)とつながった。1895年(明治28年)には墨染インクラインを完成。高低差(水位)のある鴨川運河と外堀が結ばれた。また、淀川と結ぶため三栖閘門を建設した。疏水は当初、船運の充実、水車動力による工業の振興、上水道の整備を目的としていたが、後に水力発電所を建設し、経済振興策として大いに貢献した。
伏見区は稲荷神社の総本山である伏見稲荷大社の門前町として始まり、安土桃山時代には伏見城の城下町として発達した。江戸時代になると淀川水運の港町としても栄えた。京都とは独立した別の都市であって、昭和初期までは上鳥羽や深草周辺は家屋連鎖が途切れ、田畑が広がっていたという。1931年に京都市に編入されて以後は、周囲の市街地化が進み、「京都の郊外」という色も濃くなっている。伏見以外にも、伏見城下以外で城下町として栄えた淀、醍醐寺がある醍醐地区などが区内に含まれる。
京都と合併。城下町、門前町、港町の風情が残る街並み
大正時代、「伏見の酒」として有名な酒造業が成長を遂げ、街の経済が拡大。伏見市への昇格要望が高まる。1918年(大正7年)、深草村と上鳥羽村の一部が京都市と合併。1922年(大正11年)には深草村が町制施行。続く1929年(昭和4年)4月、伏見町が市政施行を京都府に申請し、京都府もこれを受け入れ、内務大臣の認可を経て伏見市が誕生した。
この伏見市誕生には、「京都市への合併を認める」という条件がついており、2年後の1931年(昭和6年)4月伏見市は京都市と合併、深草町、醍醐村なども同時に合併し、京都市最大の行政区である現在の伏見区が誕生した
区内には、神社仏閣、酒蔵や名所史跡などのほか、かつての城下町、門前町、港町としての風情を残した町並み、祭事や伝統行事などが受け継がれている。
世界文化遺産にも登録されている醍醐寺、商売繁盛・五穀豊穣の神で知られ千本鳥居で有名な伏見稲荷大社、国宝の阿弥陀堂・阿弥陀如来坐像のある法界寺、環境省の名百選に選ばれた清らかな水が湧き出る御香宮、6月には紫陽花が咲き誇る藤森神社、方除の神として知られる城南宮、南浜の酒蔵の町並み、淀城址などが残る。
そして、油小路通り沿道を中心とする「らくなん新都(高度集積地区)」における先端的な創造都市づくりや京都高速道路、第二京阪道路の全線開通など、伏見区は、京都の新しい活力を創造していく地域としてさらに発展が期待されている。
著:吉田 恒道(公開日:2019.12.26)