埼玉県さいたま市南区の特徴
― ニッポンの自治体 ―
近世以降に市街化が進み、武蔵浦和駅開業で高層マンションが建ち並ぶ住宅都市に
さいたま市の南端に位置する南区は、西に桜区と朝霞市、北に中央区と浦和区、東に緑区、南に戸田市、蕨市と川口市と接する。さいたま市は、2001年(平成13年)5月に旧浦和市・大宮市・与野市の3市合併により誕生し、2003年(平成15年)4月1日、人口約120万人の全国で13番目の政令指定都市へ移行した。同時に、南区がさいたま市10区のひとつとして誕生した。南区は、旧浦和市域に属する行政区である。
埼玉県・さいたま市南区のマンション
2018年、埼玉県・さいたま市南区で販売された新築マンションは74戸。同区で販売した新築マンション相場価格は、4557万円~5713万円だった。同区内の中古マンション相場価格は2030万円~4970万円である。
2019年1月現在、さいたま市南区の人口は、同市の発表によると18万8854人。総世帯数は8万6519世帯だ。同区の人口はさいたま市10区で最大である。
南区の面積は13.82平方キロメートルで、さいたま市10区のなかで小さい方から4番目の面積だ。そのため人口密度は13249.4人/平方キロメートルと浦和区に次いで高い。
永い歴史に支えたれた、さいたま南区域
内谷氷川社や沼影観音堂を中心として南区内谷、曲本、沼影、松本及び戸田市の一部のことを佐々目郷と呼んでいる。南北朝時代の1335年(建武2年)以降に足利尊氏により寄進され、以後鶴岡八幡宮の社領として重要な経済基盤となった。1537年(天文6年)以後には、後北条氏により鶴岡八幡宮の所領となり、江戸時代には幕府直轄領となった。
その江戸初期、徳川家康は、各地の由緒ある寺社に所領を寄進しており、そうした土地は朱印地と呼ばれた。南区域では、三代将軍家光により太田窪の守光院と大谷口氷川社に、朱印地が寄進された。
同時に江戸時代になると交通路が整備され、中山道の宿場町として浦和宿が発展する。南浦和小学校の東側にある焼米坂(南区根岸)は、中山道を通る旅人が荒川を渡り最初につきあたる坂であり、ここに焼米を売る店があり名物になったことから、その名前で呼ばれるようになったと言われる。江戸日本橋から五里(約20km)の距離にあたることから、当時一里塚が築かれ、現在一里塚跡に記念碑が立っている。
明治時代中期以降に市街化が進んだ区域
1889年(明治22年)の町村制施行に伴い、それまで数多くに分かれていた村が合併して、南区の区域では谷田村、六辻村、美谷本村などが誕生した。
1923年(大正12年)の関東大震災などの影響で、同区のエリア、埼玉県南部地域で人口が急増する。南区の区域は、合併・編入(旧浦和市)後も市街地化が進行し、1961年(昭和36年)には南浦和駅が開業した。また、1973年(昭和48年)のJR武蔵野線と1985年(昭和60年)のJR埼京線の開通で2線が交差する武蔵浦和駅が交通の要衝となった。
南区は同市の最南端に位置し、市内10区のなかで東京にもっとも近いため、東京都内への鉄道による通勤・通学に非常に便利なエリアだ。なかでも南北にJR埼京線、東西にJR武蔵野線が交差し交通利便性の高い、同市の副都心とされる武蔵浦和駅周辺では、都市型住宅の供給や商業・業務施設の集積を目指し、大規模開発が進められている。
武蔵浦和駅周辺では、すでに高層タワーマンションが相当数建っているが、東京都心に通勤するビジネスマンにとって至便であるため、今後も大規模なマンション建設が進むとみられる。
また、武蔵浦和駅周辺地区の南側と新大宮バイパス沿いは、都市計画法上の準工業地域に指定されており、工場や大規模物流拠点が立地する。
逆に、こうした都市化にともない緑地の現象が顕著だ。このため同区東部に残る屋敷林や寺社仏閣に残った緑地、別所沼や白幡沼、彩湖などの水辺保護などが今後の課題とされる。
著:吉田 恒道(公開日:2019.12.26)