埼玉県越谷市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
かつての水郷エリアが1960年代から急成長した大規模ベッドタウン
越谷市は埼玉県の東南部に位置し、東京都心から北へ25kmという地理的環境にあり、同市の総面積は60.24平方キロメートルである。
江戸時代から「水郷こしがや」と呼ばれた地域であり、東端を大落古利根川と中川、東南端を綾瀬川、中央を元荒川が流れているほか、新方川や葛西用水など多くの河川や用水が市域を縦横に流れている。
埼玉県・越谷市のマンション
2018年、埼玉県・越谷市で販売された新築マンションは138戸。同市で昨年販売した新築マンションの相場価格は3157万円~3390万円だった。同市内の中古マンション相場価格は1610万円~3640万円となっている。
2019年1月現在、埼玉県越谷市の人口は、34万2945人。さいたま市、川口市、川越市、所沢市に次ぐ、県内5番目の人口を持った自治体だ。総世帯数は15万3166世帯である。
1953年(昭和28年)、町村合併促進法が施行され、1954年(昭和29年11月)に埼玉県越谷地区の2町8カ村が合併して、越谷町が誕生した。その後、草加町の伊原、麦塚、上谷(うわや)の越谷町への編入を経て、1958年(昭和33年)11月に市制が施行され、人口4万8318人の越谷市が誕生した。
1960年(昭和35年)に、人口が5万人を突破し、その人口増に合わせて地下鉄日比谷線が北越谷駅まで相互乗り入れ、首都圏のベッドタウンとして、人口の急増時代を迎えた。
1960年代後半から急速な市街地化が進展
市内で大規模宅地開発や地下鉄日比谷線の東武伊勢崎線への相互乗り入れなどで、1967年(昭和42年)に、人口10万人を突破し、都市化の進展で街の様相が一変した。地域活性化が進んだ反面、農地の無秩序な住宅開発、地下水の汲み上げによる地盤沈下、排水不良による浸水被害、汚水流出による河川の汚濁、学校や医療施設などの不足が生じた。
1976年(昭和51年)、同市の人口が20万人を超え、市内最大の総合病院「市立病院」が開業。市内で小・中学校が各地域で相次いで開校した。
日本経済が安定成長に移行し、同市の人口増加も落ち着きはじめ、スポーツや文化活動などの健康的で余暇を楽しむ生活が求められ、各施設の整備や各種団体の育成などの施策が進められた。1985年(昭和60年)には、人口が25万人を突破し、ようやく道路や橋、公園、公共下水道、鉄道の高架複々線化事業など都市基盤の整備が進められた。
人口が30万人を超えた1996年(平成8年)、同市内の東武伊勢崎線が越谷以南で高架複々線工事が完了、利便性が高まる。同時に、1996年12月、同県内6番目の人口30万都市となった。
国民健康保険の発祥地に「越谷レイクタウン」開業で大規模商業都市誕生
1935年(昭和10年)に旧越ケ谷町が導入した、一般住民と対象とする日本初の健康保険制度「越ケ谷順正会」は政府による旧国民健康保険の施行よりも3年早く発足した。このため、越谷市は「越ヶ谷順正会」を「国民健康保険の発祥」としており、国民健康保険法施行10周年を記念して、「越ヶ谷順正会」を顕彰する「相扶共済の碑」を、現在の市役所敷地内に立てた。
当時、勤労者を対象とした健康保険制度はあったが、農漁業などを対象とした健康保険制度は無かった。
1998年、市制施行40周年を迎え、2015年4月、同市は中核市に移行。この結果、それまで県が行なっていた福祉や保健衛生、環境、都市計画等の多くの事務権限が、同市に移譲され、自主的、主体的な判断により、市民の声を反映した行政が実現した。2018年、越谷市は市制60周年をむかえる。
東武伊勢崎線が南北に縦断、JR武蔵野線が東西に走る。市街地の中心は両鉄道の乗換駅である新越谷駅・南越谷駅周辺と市役所などがある越谷駅周辺に分散していたが、1973年のJR武蔵野線が開業以降、商業の中心はその乗換駅である新越谷駅・南越谷駅周辺に移行する。2008年の越谷レイクタウン駅とその駅前に誕生した日本最大のショッピングモール「イオンレイクタウン」開業で、商業の中心はレイクタウンに移行した。越谷駅前地区は行政の中心となった。
著:吉田 恒道(公開日:2019.12.26)