千葉県木更津市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
“かずさ4市”を代表する「きさらづ」、かつての軍都から研究開発都市へ
千葉県木更津市は、東京湾アクアラインのたもとに盤洲干潟が広がり、内陸部には万葉集にも登場する緑豊かな上総丘陵がある南房総・東京湾岸に位置する暖かな街だ。積雪はほとんどなく、コンディションが良い日には富士山を望むことができる。東西21.98km、南北13.54km、総面積138.95平方キロメートルの自治体だ。
木更津市を含めた、君津市、富津市、袖ケ浦市の4市の区域に相当する範囲は、明治期に君津郡だったため、歴史的・行政的な関係が深く、1991年、袖ケ浦町の市制開始に伴う君津郡消滅後も旧君津郡4市を一括してかずさ4市と呼称する。2000年代に入り、旧合併特例法が施行されて日本国内の各地で市町村合併の気運が高まり、この4市でも合併に向けた活動が行なわれる。各市に対して合併協議会の設置請求を行なうが、袖ケ浦市議会において否決され、合併協議会設置までには至らなかった。
千葉県・木更津市のマンション
2018年、千葉県・木更津市で販売された新築マンションは123戸。同年、同市内の中古マンション相場価格は1610万円~2380万円だった。
2019年1月現在、千葉県木更津市の人口は、同市の発表によると13万5318人。そのうち外国人は、2304人だった。総世帯数は6万1569世帯である。
木更津港~東京に蒸気船就航、そして鉄道の開設
千葉県木更津市は、「きさらづ」の地名の由来、その語源が古事記の「きみさらず伝説」にあるという説があるほど、歴史ある街だ。
江戸時代には町人文化も栄え、木更津を全国的に有名にした歌舞伎「切られ与三郎」や木更津甚句が誕生した。
明治4年、木更津県が誕生。1979年(明治12年)に東京~木更津間に蒸気船が運航するようになり、物流の増加で商業が盛んになった。1912年(大正元年)鉄道の木更津線(現在の内房線)が開通。木更津駅が誕生した。
戦前、飛行場建設など軍都として発展、戦時中に市制施行
1930年代、日本軍国主義に牽引され、木更津は軍都として発展する。1935年(昭和10年)当時の大日本帝国海軍は、帝都防衛を目的に木更津港北側を埋め立てて航空基地の造成を行なった。翌、1936年に木更津飛行場が完成、木更津海軍航空隊が所属した。同飛行場は、太平洋戦争末期に日本初の国産ジェット機「橘花」のテストが行なわれた。1941年(昭和16年)同航空隊の北東、君津郡巖根村に海軍工廠(第二海軍航空廠)が設置され、木更津町および巖根村には工廠で働く工員とその家族が移住したため、急激な人口増加による住宅不足の問題に直面する。2町村では大勢の移住者を受け入れる住居や新しく家を建てる土地も無く、隣接する清川村にも移住者の受け皿としての役割を求めるようになり、木更津町、巖根村、清川村の3自治体を中心に合併協議が進められた。後に協議に加わった波岡村を含めた4自治体が合併し、戦時中の1942年(昭和17年)に、県内で6番目の市として木更津市が施行となる。
戦後、軍施設は米軍管理下に置かれ、1968年から陸上自衛隊の駐屯地、海上自衛隊の補給所として使われている。
その後、港町として栄え、昭和後半は木更津~川崎・横浜間でカーフェリーも活躍。
東京湾アクアライン開通などで活性化に期待
1997年(平成9年)に、国際会議場やホテルなどを備えた研究開発拠点「かずさアカデミアパーク」が全面開設された。世界初の施設として「かずさDNA研究所」が開設された。同時に東京湾をトンネルと橋梁で横断する大規模高速自動車道、東京湾アクアラインが開通した。
その後、陸上交通でも館山自動車道・圏央道(首都圏中央連絡自動車道)・東京湾アクアラインがクロスする、現在でも交通の要衝となっている。交通インフラ整備による市域活性化に期待が高まる。
童謡「証城寺の狸ばやし」の舞台の地として有名だが、最近では、テレビドラマ「木更津キャッツアイ」や、人気ロックグループ氣志團の出身地としても注目を浴びている街だ。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)