千葉県印旛郡酒々井町の特徴
― ニッポンの自治体 ―
鉄道交通網、都市インフラが整ったコンパクトシティ「しすい」
千葉県印旛郡酒々井(しすい)町は、千葉県北部中央に位置する自治体だ。2010年に印旛郡印旛村と本埜村が印西市に編入され、千葉県印旛郡に属する自治体は、栄町と酒々井町のふたつだけとなった。
町内には4つの鉄道駅があり、JR酒々井駅周辺には、「酒々井町中央台団地」や「東しすい住宅団地」などが広がっている。JR酒々井駅には後述するが、近年JR成田線・快速電車が停車することになり、京成電鉄の京成酒々井駅、宗吾参道駅に特急電車が停車するなどと合わせて、鉄道交通を利用した通勤・通学にきわめて至便な街となっている。
なお、下水道普及率は県内町村でトップを誇り、インフラストラクチャーが整備されたコンパクトシティである。
千葉県・印旛郡酒々井町のマンション
2018年、千葉県・印旛郡酒々井町で販売された中古マンション相場価格は1890万円~1960万円。
2019年1月現在、印旛郡酒々井町の人口は、同市の発表によると2万830人。総世帯数は9821世帯である。
伊篠白幡遺跡や上岩橋貝層、かんかんむろ遺跡などから酒々井地域に人々が住んだのは、約3万年前とされ、以後、水と緑の大地を背景として連綿と人が生活してきた。印旛沼の岸辺には1600年前に沼を水田に利用しようとした豪族が眠る古墳が残されている。
戦国時代まで100年、この地域を収め栄華を誇った千葉氏は、印旛沼の水運を利用して遠く伊勢、堺との交易を行なったとされる。
酒々井は江戸時代になると、城下町、成田山詣の宿場町、当時の陸上交通手段である馬を扱う幕府直轄の野馬会所として賑わう。
約400年前の天正19年、徳川家康により酒々井の町たてが行なわれた。
明治22年の町村制施行で誕生した「しすい」、以後独立独歩で歩む
1889年(明治22年)、町村制の施行により旧来からの集落を編成する町村合併が全国で実施。この結果、酒々井地区では近隣16町村が合併し、新たに酒々井町が誕生した。当時の規模は、戸数700戸余、人口は約3600人と記録されている。酒々井は、この明治の合併以降、一度も合併を実施していない数少ない自治体のひとつであり、千葉県内では、ほかに鎌ケ谷市、習志野市、富里市、浦安市がある。
酒々井は古来より水運と陸運の接点として交通の要衝だった。なかでも水運は、印旛沼の渡舟と高瀬舟があり、渡舟は江戸時代より続き、対岸の印旛村平賀を結ぶ町民の足として活躍した。また、高瀬舟は江戸時代から明治後期まで大型貨物輸送の花形として活躍した。
1897年(明治30年)、現在のJR酒々井駅が開業。次いで1914年(大正3年)、総武本線南酒々井駅が、京成酒々井駅および宗吾参道駅が、1925年(大正15年)にそれぞれ開設され、地域の経済・文化に大きな影響を与えた。
鉄道の開業以降、町で進められた大事業が印旛沼の干拓事業だ。干拓は、水害から土地を守り、食糧を確保する目的で始められた。が、江戸・明治以降この事業は失敗を繰り返していた。しかし、1978年(昭和53年)には、干拓田の造成が一応の完成をみる。そして、町の環境にも大きな変化が生まれた。
農村からインフラの整った住宅都市へと大きく変貌する
昭和初期には、かつての宿場町の名残と面影を残す人口約5000人の農村だった町は、昭和40年代に入ると、恵まれた立地環境特性を生かした住宅開発が進められ、1972年(昭和47年)に現在の役場庁舎が完成。1974年(昭和49年)から住宅団地の入居が開始となる。
この間、町の人口は急速に伸び、農業中心の町から住宅都市へと大きな変貌を遂げる。2001年、長年の住民運動が実って、JR成田線酒々井駅で快速電車の全面停車が実現。同時に2013年には、東関東自動車道酒々井インターチェンジ供用がスタートした。
全国的に平成の大合併が進むなか、佐倉市との合併の是非を問う住民投票が実施されたが、酒々井町は自立の道を選択した。
酒々井町では、「ふれ愛タクシー」という大型タクシーを利用したデマンド型の乗合タクシーのサービスを行なっている。このサービスは、2003年度における国土交通省の「公共交通不便地域における情報通信技術を活用したデマンド型乗合タクシーモデル実験」という実証実験からスタートした事業である。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)