千葉県野田市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
世界的なSoy Sauceブランド「Kikkoman」を生んだ“醤油”の街
千葉県野田市は、市の最北端部で利根川、江戸川が分流し、東を利根川、西を江戸川、南を利根運河が流れる、三方を河川に囲まれた市だ。この堤防上は一周約60kmで、サイクリングコースとして、散歩やジョギングなどにも最適の自然環境だ。2003年に、旧野田市と関宿町が合併して誕生した千葉県最北部の自治体だ。同市総面積は、103.55平方キロメートルである。
千葉県・野田市のマンション
2018年、千葉県・野田市で販売された中古マンション相場価格は1470万円~1820万円だった。
2019年1月現在、千葉県野田市の人口は、同市の発表によると15万4727人。総世帯数は6万7961世帯である。
野田市域は、縄文時代にはすでに相当な規模の集落があったとされる。1976年(昭和51年)に国の史跡に指定された山崎貝塚と呼ばれる、およそ4000年前~3000年前(縄文時代中期~晩期)の遺跡を整備した公園の存在で分かる。
千葉県には、全国の25%に相当する貝塚があるが、野田市内では217の縄文時代の遺跡が確認され、うち47遺跡が貝塚を伴う。なかでも大型の馬蹄形貝塚とされる、東金野井貝塚や野田貝塚などは、山崎貝塚とともに、全国的にも有名な縄文時代の遺跡だ。
近世まで下総国に属した野田は、江戸時代の醤油醸造で飛躍する
野田市は、古代より近世まで下総国(しもうさのくに)に属する。その古代国域は広く、今日の千葉県域を超え、東京都・埼玉県・茨城県の1都2県に及んでいた。
また、奈良・平安時代の集落跡も、市内の岡田・新宿・桐ケ作・木間ケ瀬・松ノ木・尾崎・岩名・二ツ塚・清水・山崎・目吹・三ツ堀などで発見されており、その多くが江戸川沿いの台地にあった。
平安時代の末期、この地方にも、寄進地系荘園が成立する。
鎌倉時代の野田市域は、目吹と木野崎の一部が相馬御厨(そうまのみくりや)に属し、その西側一帯は、広く下河辺庄(しもこうべのしょう)の庄内領だったという。戦国時代に入ると、両上杉氏にかわって小田原北条氏が関東一円に勢力を拡大する。
江戸時代になって野田には関宿が置かれ、利根川と江戸川の水上交通により栄え、関宿藩には幕府の水関所が置かれ賑わった。治安が安定すると、新田開発や農地の開墾が進む。野田の醤油は、永禄年間(1558~70年)に飯田市郎兵衛の先祖が溜醤油を造り武田氏に献上したことに始まると伝えられる。しかし、実際に史料上で確認できるのは、1661年(寛文元年)に上花輪村高梨兵左衛門家が醸造をはじめたとされる事実だ。これが後のキッコーマン醤油などにつながるわけだ。
明治末期に開通した鉄道は地域産業「醤油」醸造振興し、ブランド化に
1911年(明治44年)、千葉県営軽便鉄道野田線が野田町~柏間に開業。鉄道の開通は、野田の醤油醸造家の製品・原料などの輸送を向上させた。1922年(大正11年)、野田線が払い下げられ出来た北総鉄道の大株主にも醤油醸造家が名を連ねる。この鉄道が時代と共に延伸され、1944年(昭和19年)、東武鉄道と合併し、現在の東武野田線となった。
野田駅周辺はキッコーマンの創業地であり、いまでは世界的なブランドに成長した「Kikkoman Soy Sauce」の街だ。米国ではKikkomanが、醤油の代名詞となっている。
野田市は、大きく野田地域と関宿地域に分けられる。
野田地域は、国道16号以西が市街地、東は農地、ゴルフ場を中心とした緑がひろがる。市街地は、その土地利用上の特性から北部、中央、南部の3地区に区分され、北部地区と南部地区は、土地区画整理事業で計画的に開発・整備された住宅地。中央地区は、古くからの醤油工場の集積を中心に工業地、商業地・住宅地が形成されており、経済、文化、商業、生活の中心的な地区だ。
同市の重要産業である醤油醸造は、市内のキッコーマン醤油とキノエネ醤油で、国内シェア3分の1を製造する。
また、国道16号の東側の台地部分は、畑地、ゴルフ場として利用されており、 低地部分には水田が広がる穀倉地帯だ。
関宿地域は、北部地区は、城跡や史跡等の歴史的遺産による文化的な潤いのある市街地、中部地区は、基盤整備がやや遅れているものの、土地区画整理事業による計画的な市街化が図られ、はやま工業団地が整備され物流施設が集積している。南部地区は、優良な農地と共存した集落が形成される。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)