埼玉県入間郡三芳町の特徴
― ニッポンの自治体 ―
柳沢吉保の開発で発展した農村は、いま財政優良なコンパクトタウン
埼玉県入間郡三芳町は、東京から30kmに位置し、埼玉県入間郡の南部、武蔵野台地の北東部にあたり、東経139度31分、北緯35度49分にある。海抜は37.5m前後、自治体総面積は15.33平方キロメートルで、その形状は東西6.9km、南北4.2kmで、西から東へとゆるやかに下っている。全般的に関東ローム層におおわれたほぼ平坦な台地だ。東に志木市・富士見市、南東に新座市、南西に所沢市、北にふじみ野市・川越市と隣接する。
埼玉県・入間郡三芳町のマンション
2018年、埼玉県・入間郡三芳町で販売された新築マンションは125戸。中古マンション相場は2170万円~2800万円だった。
2019年1月現在、三芳町の人口は、同市の発表によると3万8324人。総世帯数は1万6401世帯である。
三芳町行政区域は、約3万年前の旧石器時代から人々が住んだ。これは、「藤久保東遺跡や藤久保東第二遺跡」から発掘された石器によって明らかになっている。また、藤久保の「俣埜遺跡」からは縄文時代の竪穴住居跡や土器が、竹間沢の「本村南遺跡」からは弥生時代の方形周溝墓などが発掘された。
平安時代になると、みよし台一帯には瓦や壷などを焼く窯が築かれた。ここで焼かれた器の中には「福麿」と刻まれたものがあり、この町内最古の文字で表わされた人物は、当時のこの地方の有力者と考えられている。
三芳町地域は江戸時代、川越藩主・柳沢吉保による開発から進む
鎌倉時代、鎌倉武士が馬を走らせた「鎌倉街道」が藤久保と竹間沢にあり、竹間沢には中世を思い起こさせる文化財や地名が残る。
三芳の地域が本格的に開発されたのは江戸時代に入ってからで、徳川家康の関東入国以降、武蔵野台地の開発がすすむ。とくに1694年(元禄7年)、川越藩主・柳沢吉保による「三富(さんとめ)新田開拓」が実施され、三芳の旧4カ村が成立する。細長い短冊形の地割りが続き、美しい農総風景を形作っている同町の上富地区は、この江戸時代の新田開発で誕生した風景だ。三富開発の三富とは、三芳町の上富地区のほかに、現在の所沢市にあたる中富と下富からなっており、上富地区が往時の面影をもっとも色濃く残していることで知られている。
しかし、この江戸の新田開発からしばらくの間は、農業経営も安定しなかった。火山灰(関東ローム)の痩せた土地では、アワ・ヒエなどの雑穀しか収穫できなかったからだ。しかし、1751年(寛延4年)に千葉県市原から同地方に救荒作物としてサツマイモがもたらされ、三富地域で盛んに生産されるようになり、文化年間(1804~1817年)には、江戸で「川越イモ」のなかの「富のイモ」が評判になったと伝えられている。この名品のサツマイモは、現在も「富の川越イモ」のブランドで作り続けられている。
1889年(明治22年)4月、時の政府による町村制施行により、上富村、北永井村、藤久保村、竹間沢村が合併して三芳村が誕生。以来、長期間にわたり純農村地帯として歩んできた。昭和40年代から高度経済成長とともに首都近郊のベッドタウンとして、また、首都圏の流通基地としてめざましい変貌を遂げ、人口も急増し、1970年(昭和45年)に町制を施行、現在は商・工・農のバランスが整った街に発展した。
優良財政を維持するコンパクトタウンは平成の大合併でも揺れず
「平成の大合併」において、上福岡市、入間郡大井町(現在のふじみの市)、入間郡三芳町との合併が協議された。住民投票の結果、富士見市は賛成多数だったものの、上福岡市、大井町は住民投票不成立、三芳町は反対多数だったため、合併は中止となった。
三芳町が合併に消極的だったのは、幹線道路である関越自動車道、国道254川越街道が走り、その沿道には物流企業が多く、町工場も立地、それらからの固定資産税収入が潤沢だったためだとされている。事実、財政は極めて優良で、埼玉県内で2015年度、地方交付税不交付の自治体は、戸田市と三芳町だけだった。
町内に鉄道駅は無い。が、東武東上線の志木駅、柳瀬川駅、鶴瀬駅、ふじみ野駅が街の東北側境界線近くにある。南にはJR武蔵野線の新座駅、東所沢駅が、西南には西武新宿線・池袋線の所沢駅にも近い。多岐にわたって利用できる鉄道網のおかげで、東京都心へのアクセスも多彩に実行できる。そのため東京都のベッドタウンとして発展した住宅都市でもある。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)