埼玉県北葛飾郡杉戸町の特徴
― ニッポンの自治体 ―
かつての日光街道「杉戸宿」は、往時の面影を残す近郊農業都市、そして住宅都市
埼玉県北葛飾郡杉戸町は、県東部に位置し、北は幸手市、久喜市に、東は千葉県に、西は宮代町に、そして南は春日部市に接している。東西約10km、南北約7km、総面積は30.03平方キロメートルの自治体だ。
米作を中心とし酪農、施設園芸も行なわれている農業地域だが、都心から40kmに位置するため、近年の宅地開発や人口流入に伴い、首都圏の住宅都市として発達しつつある。
埼玉県・北葛飾郡杉戸町のマンション
2018年、埼玉県・北葛飾郡杉戸町で販売された中古マンション相場価格は1960万円だった。
2019年2月現在、杉戸町の人口は、同市の発表によると4万5117人。総世帯数は1万9002世帯である。埼玉県内で、もっとも人口が多い“町”だ。
県内一の人口を誇る“町”は、宿場町として栄えた往時を伝える
杉戸町のエリアは、江戸時代に日光道中(街道)の、日本橋から数えて千住、草加、越谷、粕壁に続く5番目の宿場「杉戸宿」として発展した。宿場自体は五街道の整備に伴い、宿場は街道に沿って町並みを構成し、町中は新町、下町、中町、上町、河原組、横町に分かれ、それぞれに名主や問屋が置かれた。1843年(天保14年)の記録によると、杉戸宿の往還は、長さ16町55間、道幅は5間、宿内家数365軒、人口1663人、本陣1軒・脇本陣2軒、旅籠屋46軒(大4軒・中7軒)であったとされる。現在でも、都市化の影響をそれほど受けていないためか、旧家も比較的よく残っており、往時の面影を感じさせる街並みが残る。
日光道中は、江戸の日本橋と日光を結ぶ道、また宇都宮から分岐する奥州道中を兼ねていた。現在、杉戸町を通っている国道4号線の旧道が日光道中の道筋である。また、日光御成道は、かつての鎌倉街道とも重なる部分も少なくない。日光社参の将軍が通行したことから、「御成道」と呼ばれ、日本橋を起点に王子、川口、岩槻を経て、幸手で日光道中と結ばれていた。その日光御成道は、杉戸町内の下高野・下野地区を通っており、現在の県道岩槻~幸手線だ。この御成道の一里塚が下高野地区に片側だけ残されており、県の文化財に指定されている。
明治維新により、それまで武蔵国に属していた地域も、慶応4年に下総県となる。1869年(明治2年)には葛飾県が誕生し、県庁が流山市に置かれた。その後、明治政府は廃藩置県を行い、1871年(明治4年)、浦和県、忍県、岩槻県が合併して埼玉県が誕生。
明治の鉄道開通で変わる環境も、積極的な農業振興を進める自治体
1889年(明治22年)、大日本帝国憲法の公布に続き、市制、町村制が実施され、杉戸宿と清地村・倉松村が合併し北葛飾郡杉戸町が誕生した。その後、紆余曲折を経て、1899年(明治32年)、杉戸駅(現在の東武線・東武動物公園駅)が開業した。当時は英国製の蒸気機関車が走っていた。
この鉄道の開通によって、物資の流通も河川交通から鉄道へと移行する。現在では地下鉄日比谷線・半蔵門線への直通電車も運転されており、鉄道による住民にとっての便益は、より大きなものとなった。
また、戦後のモータリゼーションによって道路交通網が発展すると、道路交通網がもうひとつの人の移動と物流の主役となっていく。
2017年11月14日付の日本経済新聞によると、杉戸町で農業生産者らが連携し、商店街の空き店舗を活用した「直売所」で、朝収穫したばかりの野菜を売る活動を始めた。参加者はいずれも同町の就農者育成塾の出身で、農家が自ら店頭に立って作物を売り、客の要望も受け付ける。町は就農者の販路拡大を後押しするとともに、商店街のにぎわいづくりにも役立てたい考えだ。
直売所を開設したのは、杉戸町が農業の新たな担い手を育成する「明日の農業担い手育成杉戸塾」で学んだ30~40代の6人。直売所は東武鉄道東武動物公園駅に近い商店街で、以前は鮮魚店だった空き店舗を使った。
このような取り組みは、近年空き店舗が目立つ中心商店街を活性化する狙いもある。
杉戸町は、県が運営費の4分の3を補助する「明日の農業担い手育成塾」の制度を活用。2年間、新規就農希望者の研修用農場を町が借り上げ、先輩農家や農業委員が指導員となり、円滑に就農できるよう支援している。これまでに7人が塾を「卒業」し、6人が町内で就農した。うち5人は町外からの移住者である。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)