東京都文京区の特徴
― ニッポンの自治体 ―
文京区は江戸の面影を残す文化の街「文の京」(ふみのみやこ)
文京区は、1947年(昭和22年)3月、東京22区制施行に伴って、旧小石川区と旧本郷区の2区が合併して誕生した。その小石川区と本郷区は、1878年(明治11年)に施行された区町村制で生まれた街だ。「文京」という名称は、「学問の府」という区の特徴や性格から名付けられたもので、ふつうの自治体名称は、その位置や旧地名・駅名や複数の旧区の名称合成から名付けるのが一般的ななか、文京区の名称は、23区のなかでも極めて独特な区名といえる。
東京都・文京区のマンション
2018年、東京都・文京区で販売された新築マンションは648戸。同区で販売された新築マンション相場価格は7624万円~1億1158万円だった。同区内の中古マンション相場価格は4620万円~1億850万円。同区エリアには商業地区が少なく、東京大学など教育機関や医療施設、公設機関、小石川植物園などの大規模な公園などを除くと、ほぼ全域が住宅地だ。
文京区の人口は、2019年1月現在、22万1489人で、うち外国人は10808人。総世帯数12万1128世帯。1970年代以降に人口減が続き、1995年の国勢調査で17万人まで減少。が、1999年から都心回帰指向を反映したマンション建設が活発化し、人口が増加に転じ、2010年に人口20万人に復活した。
文京区は、東京都の区部(23区)の中心地に近く、都心3区(千代田、中央、港)のやや西北部に位置する。皇居を中心として、北の方角に当たり、いわゆる「山の手」の一角にある。武蔵野台地の東端にあり、こう配の急な坂と崖と、江戸川(神田川)や千川・藍染川(ともに現在暗渠)などにつくられた低地の部分、また関口台、小日向台、小石川台、白山台、本郷台の5つの台地で構成される。
東京の中央に位置する住宅地で、江戸時代から“教育の街”だった
総面積は11.29平方キロメートルで、東京都区部の50分の1であり、23区で20番目と小さな面積の区だ。
文京区は、その総面積の90%が山手線の内側にあるが、JRの駅はひとつもない。東京23区でJRの駅がないのは、ほかに目黒区、世田谷区、練馬区である。JRの駅はないものの地下鉄網は充実しており、東京メトロ丸ノ内線、南北線、千代田線、有楽町線、都営地下鉄三田線、大江戸線が縦横に走り、区内全域が鉄道騒音の無い静かで至便な住宅地である。
江戸時代、城下の開発が進められ、現在の文京区には大名屋敷、武家屋敷が置かれ、伝通院、護国寺、根津神社などの寺社が創建され、次第に街が形成された。江戸時代半ばには、文京区内の大半が武家屋敷で占められていたが、幕府の官学の府ともいうべき湯島聖堂、昌平坂学問所もあった。
明治時代に入り、政府は教育に力を入れ、多くの官立、私立学校が区内に設立され、学校の転入も相次ぐ。広大な武家屋敷の跡地は、大学などの教育機関の敷地や軍用に転用。1877年(明治10年)に、東京大学が旧本郷本富士町の加賀前田屋敷跡に開学し、日本の学術研究と高等教育推進の中心的役割を果たす。また、私学としては、明治初期の同人社、済生学舎に始まり、称好塾、哲学館と次々に創立された。同時に、昌平坂学問所跡に師範学校、女子師範学校が設立された。また、女子高等教育の普及とともに、日本女子大学校、女子美術学校が創立され、文教地区の“文の京”の特徴が鮮明になった。
文人たちの居が並び、数多くの名作文学が誕生した街
これとともに、坪内逍遙や森鴎外、夏目漱石や樋口一葉、川端康成など、多くの著名な文人が住み、この地を舞台に数々の名作を著し、文教の地としての厚みを一層増したといわれる。
また、文人たちの居とともに、後に日本を代表することになる出版社が文京区エリアに編集部を構え始めた。また、出版社と関連が深い印刷・製本業は文京区を代表する産業で、地場産業として発展した。現在でも大手印刷会社から中小の印刷・製本関連の事業所まで軒を連ねており、文京区内製造業出荷額の約7割は、印刷・製本関連業種が占める。
また、文京区本郷は、東京大学医学部が開設された明治時代から医療関連産業のメッカとしても知られ、同時に日本最先端の医療機器製造業や医療機関も置かれるようになり、メディカルタウンとして有名になった。
一方、前述した小石川御薬園の前身は、東京大学付属の植物園である「小石川植物園」(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)、水戸徳川家の上屋敷内の庭園である現在の「小石川後楽園」、柳沢家の下屋敷庭園だった「六義園」など、貴重な緑地を今に残している。
著:吉田 恒道(公開日:2019.12.25)