東京都日野市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
大規模団地の住宅都市、近郊農業地、企業城下町など多彩な顔を持つ街
江戸時代、甲州街道の「日野宿」が置かれ、農業を中心とした宿場町として栄えた。北から東にかけては 隣接する昭島市、立川市、国立市、府中市との境界を多摩川が流れ、市域南部に多摩丘陵から流れ出る浅川と合流する水に恵まれた地域だ。
現在でも国土交通省より「水の郷百選」に認定されるように自然が豊かな街だ。多摩地区のなかでも水田や野菜畑などの農地が占める割合が高く、首都圏の代表的な都市農業地として紹介されることが多い。
市域は稲作地が多い低地、畑や工場がある台地、森林や里山の丘陵地と多彩な顔を持つが、いずれも宅地化が進んでいる住宅都市だ。
東京都・日野市のマンション
2018年に東京都・日野市で販売された新築マンションは818戸。新築マンションの相場価格は4239万円~4834万円だった。中古マンション相場価格は1820万円~4270万円。
2019年1月現在、日野市の人口は18万5393人で、総世帯数は8万8402世帯である。
全国に先駆けて誕生した多摩平団地などの団地群、そして企業城下町
東京都日野市は東京都のほぼ中央に位置し、JR中央線特別快速を利用して新宿から29分、京王線の高幡不動駅まで特急で30分の距離。南北に多摩都市モノレールが走っている。総面積は27.55平方キロメートルの自治体だ。
トヨタグループのトラック&バス製造会社「日野自動車」の企業城下町でもある。ただ、日野自動車の本拠地は2020年までに日野工場を閉鎖、茨城古河新工場に移転する。
1950年代半ばから宅地としての開発が進み、なかでも1958年(昭和33年)から入居がはじまった多摩平団地は日本の団地として先駆け的存在だった。
日野市域には、5万年ほど前の石器時代に人が住み始め、1万年前の縄文時代初期に集落が形成されたとされる。
中世の日野市域には、船木田荘と吉富郷・得恒郷・土渕郷などがあった。鎌倉時代後半から戦国期にかけては、高幡高麗氏の一族が高幡不動周辺の浅川流域を支配した。その高幡山金剛寺(高幡不動)は、多くの文化財があることで知られ、参詣客が絶えない市内随一の古刹だ。
江戸時代、日野市域は幕府直轄地と旗本領となり、1605年(慶長10年)甲州街道が整備され、日野宿が置かれた。
土方歳三と井上源三郎を輩出した「新選組のふるさと」
日野は「新選組のふるさと」でもあり、幕末には、当地出身の土方歳三と井上源三郎は、剣術道場で出会った近藤勇や沖田総司らと上洛し、京都であの有名な新選組を結成。新選組は京都の治安維持に奔走するも、徳川幕府は崩壊。井上源三郎は鳥羽伏見の戦いで、土方歳三は箱館で亡くなる。
1889年(明治22年)の市制・町村制の施行により、日野宿、桑田村、宮、万願寺、下田、新井、七生村が誕生。同時に、甲武鉄道(現在のJR中央線)の新宿から八王子間が開通し、翌年日野駅が開設された。1893年(明治26年)、多摩地域が東京府に編入され、日野宿は「日野町」となる。1901年(明治34年)、日野町と桑田村が合併。1925年(大正14年)には、府中~八王子間に玉南電気鉄道(現在の京王線)が開通し新宿と結ばれた。
戦前の1930年ごろから昭和恐慌の対策として当時の日野町は工場誘致を積極化させる。1936~1943年に5社が日野台地上に六桜社(コニカミノルタ)、吉田時計店(オリエント時計/現在はセイコーエプソン)、東京自動車工業(日野自動車)、神鋼電機(後に撤退)、古河グループの富士電機の工場が立地した。これら「日野5社」を皮切りに日野は内陸工業都市として発展する。
戦後、1958年(昭和33年)、日野町と七生村が合併し、新しい日野町となり、1963年(昭和38年)、市政施行により人口5万5595人の「日野市」が誕生する。その後、人口は急激に増加し、1983年(昭和58年)に15万人を突破した。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)