東京都東大和市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
東京の水がめ「多摩湖」を擁するベッドタウン。「南街」は計画的開発都市
東京都東大和市は東京都の中央部の北側に位置し、東は東村山市、西は武蔵村山市、南は立川・小平両市に、北は埼玉県所沢市と接する。市域は東西5.3km、南北4.3km。総面積は13.42平方キロメートルだ。
東京都・東大和市のマンション
2018年、東京都・東大和市で販売された新築マンションは97戸。また、同市内の中古マンション相場価格は2520万円~3150万円だった。
東大和市の2019年1月現在の人口は、8万5565人で、総世帯数は3万8852世帯である。
東大和の名称の由来は、1919年(大正8年)の村制施行時に、芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、狭山、清水の6カ村が“大いに和してひとつ”になるということから「大和村」と称したのが始まり。その後、1954年(昭和29年)、町制を施行し、1970年(昭和45年)の市制施行の際、神奈川県大和市と区別する意味も含め“東京の大和市”という意味をこめて名付けられた。
近代的な上水道建設計画から生まれた狭山丘陵の貯水池「多摩湖」建設
東大和の古代の歴史を知るうえで、1976年(昭和51年)春、重要な調査が行なわれた。村山貯水池(通称・多摩湖)内の水を抜く事業の際に行なわれた多摩湖遺跡群の発掘調査で、約2万年前の石器が発見された。このことから少なくとも、狭山丘陵で人々の暮らしがあったことがわかった。
当時は、氷河時代が終りを告げ、気候が少しずつ温暖になりはじめた時代だった。1万2千年ほど前の縄文時代には気候がおだやかになり、東大和の人口も増えた。ところが、寒冷化した縄文時代の後半(約3500年前)になるとこの地方での人口が減りはじめる。
ところが、平安時代になると、ふたたび人口が増えはじめる。多摩湖の湖底やその周辺地域から、当時の家のあとが発見されている。また、この時代には、灌漑技術が発達し、稲作が始まったとされる。
江戸時代になると、江戸城築城のため、現在の青梅市の成木から白土(石灰)を運ぶための青梅街道が開通、江戸市中との交通が活発となる。また、尾張徳川家の御鷹場にもなった。
明治時代、廃藩置県で神奈川県多摩郡の一部となり、明治26(1893)年に多摩3郡が東京府に編入された。1912年(明治45)年、近代的な上水道建設を計画していた東京市が、狭山丘陵に貯水池建設を決定。大正時代に入ると、貯水池建設のため、土地が次々と買収され、1919年(大正8年)に6カ村が合併し、大和村が誕生した。
1927年(昭和2年)に村山貯水池は完成。東大和は都市近郊農村として発展する。
戦争を見据えて建設された計画的都市開発で生まれた「南街」
1938年(昭和13年)、太平洋戦争を目前に控え、大きな工場とその関係者の住宅街が、近代的な区画整理のもと、ひとつの街としての機能をもった南街(なんがい)が建設される。そこで戦闘機のエンジンなどを作っていた日立航空機工場は米軍による大規模爆撃の対象となり、1945年(昭和20年)に、数回にわたる大空襲で壊滅的な被害を受け、多くの犠牲者を出した。
1954年(昭和29年)に町制施行により大和町となったころの人口は1万3千人前後だった。が、昭和30年代から40年代にかけて都営住宅や大規模団地が次々に建設され、人口は急増する。1965年(昭和40年)に3万人、東大和市となった1970年(昭和45年)には4万5千人を突破し、現在では8万人を超えるベッドタウンに成長した。
市域西部に多摩都市モノレールが南北に、南端を西武拝島線が走り、南街には青梅街道が、市域中央を新青梅街道が通っている。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)