大阪府大阪市旭区の特徴
― ニッポンの自治体 ―
地域コミュニティ活動が活発、加えて交通至便な閑静で快適な住宅都市
大阪市旭区は、同市の東北部に位置し、北に淀川を望み、西に城東貨物線、南に国道163号線が走り、東は守口市と接している。総面積は6.32平方キロメートルである。
大阪府・大阪市旭区のマンション
2018年に大阪府・大阪市旭区で新築されたマンションは100戸で、相場価格は3168万円~3240万円。中古マンション相場価格は2380万円~3500万円だった。
2019年1月現在、旭区の人口は9万525人、総世帯数は4万8042世帯だった。同区人口は1960年代に14万人を超えていたが、以降漸減傾向にある。
古来より京街道の要衝として栄えた
旭区の歴史は古く、区内に残る森小路遺跡が示しているように弥生時代にすでに集落が発生していた。中世以降は、京都と大阪を結ぶ地域として栄え、水路では三十石船などで淀川を往来していた。主要な陸路は京街道で、大阪から京都に至る古来の主要交通路なった。
豊臣秀吉は、淀川堤の改築など交通・治水を考慮した事業を実施。そのため中世以降は、京都と大阪の中継地として栄え、淀川を水路として三十石船などが運航された。陸路についても豊臣秀吉による道路整備が行なわれ、大阪から京都に至る古来の主要交通路として京街道を整備した。この京街道、江戸時代には、参勤交代をする大名行列などで賑わい、陸上交通の要衝となった。
1925年の全国的な市町村制施行で大阪市に編入
1925年(大正14年)の全国的な市町村制施行にともない、旭区の区域だった東成郡、西成郡を一挙に併合し、新設の東成区として大阪市に併合された。その後、1932年(昭和7年)10月1日に東成区の北半分を分離して旭区が誕生した。
区名の由来は、「日の出ずる東部」を意味し、文字通り「旭日昇天」の勢いで将来の発展が約束されるというところから名付けたという。1942年(昭和17年)に区域が拡張、翌1943年、全市において区の再編が実施され、旭区の南半分を分区することで現在の旭区の区域になった。
大阪中心部へ電車で10分と至便な交通網で快適な住宅地
先の大戦で、大阪市都心部の各区は、1945年(昭和20年)3月の大阪大空襲で甚大な被害を被った。が、旭区はその被害が極めて少なく、周辺地域と比べて戦前の建築物が多く残っている。なかでも1937年に千林の建築された2階建ての長屋は、2010年に大阪市都市景観資源に指定された。
旭区は、地下鉄谷町線や京阪電鉄が都心に直結し、梅田まで地下鉄で10分ほどと交通が便利でありながら、静かで明るい雰囲気を持つ快適な住宅区とされる。また、南北方向の鉄道網として、大阪外環状線鉄道の整備が進められている。また、地下鉄今里筋線も2006年(平成18年)12月に開業した。
同区の道路交通網としては、淀川にかかる菅原城北大橋と、その東に位置する豊里大橋が市北部と都心を結んでおり、豊里矢田線、新庄大和川線、国道1号線などが旭区内を縦横に走る。
同区は地域コミュニティ関連施設も充実しているのが特徴だ。旧京街道や江野川筋遊歩道の整備が進むとともに、公園景観との調和を図った地下式構造の旭スポーツセンターは、地域スポーツの振興の拠点としてその役割を果たしている。
また、城北川に隣接する地域に、水と緑に親しめる公園の整備と一体化させ、学習・文化・交流など区民が集い、憩える場としての区民センターをはじめ、気軽に優れた文化に触れ、自らも文化活動が展開できる芸術創造館や、図書館などを併設した複合施設が2000年(平成12年)に開設した。
著:吉田 恒道(公開日:2019.12.26)