大阪府四條畷市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
自然豊かな北生駒の緑に囲まれた、大阪のベッドタウン、近郊住宅都市
大阪府四條畷(しじょうなわて)市は、大阪府の東北部に位置し、市域の面積18.69平方キロメートル。市域の約3分の2が北生駒山地で占められている緑豊かな街である。市の中心部には室池と称される複数の池を有し、その周辺には豊かな自然を観察することができる遊歩道が整備されている。
平成9年(1997年)にJR東西線が開通してからは、大阪市方面との結びつきがさらに強くなり、自然豊かな都市としてだけでなく、大阪市近郊のベッドタウンとしての性格も色濃くなった。
大阪府・四條畷市のマンション
2018年、大阪府・四條畷市で販売された中古マンション相場価格は1960万円~2520万円である。
2019年1月現在、四條畷市の人口は、同市の発表によると5万5802人で、総世帯数は2万4279世帯である。
同市の歴史は旧石器時代にまでさかのぼることが出来る。縄文・弥生時代を経て平安時代に入ると市内を南北に走る東高野街道に沿う交通の要衝となる。
現在の田原台一丁目にある田原遺跡では四條畷で最も古いおよそ9千年前、縄文時代の人が使った土器や石器が見つかっている。同様に四條畷市と寝屋川市の境界を流れる讃良川のほとりにある更良岡山遺跡でも、4千年ほど前に人が住んでいた跡が残る。
日本史の定石どおり、弥生時代には稲作が盛んになり、今から1400年ほど前、飛鳥時代になると、朝鮮半島から伝えられた仏教が日本でも広まり、有力者たちは荘厳な寺院を建てるようになった。
長い歴史に培われた文化、江戸時代までに農業地として立地する
794年に遷都し平安京が誕生、その後1000年以上にわたって日本の中心地として機能する。平安時代には、貴族を中心として、それ以前の文化とは異なった文化が花開く。この時代、河内、大和間の文化交流の中継点として栄える。同時に、東高野街道、古堤街道、清滝街道が貫通する交通の要衝として人々や物資が盛んに行き来するようになった。
足利尊氏が京都に開いた室町幕府は、三代将軍足利義満の代になって南北朝の統一に成功し、中国の明王朝と交易を行なって繁栄する。しかし、八代将軍足利義政のころになると将軍の力が徐々に低下し、応仁の乱から戦国の世へと突入していく。徳川方と豊臣方の戦いとなった1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では、市内の忍ヶ岡丘陵に江戸幕府二代将軍徳川秀忠が陣を敷き、戦国の時代も集結する。
江戸時代には新田開発が盛んに行われ、農業技術は進歩し、河内木綿として知られた綿づくりも始まる。また、菜種づくりも盛んになった。現在でも同市の貴重な水源として活用している室池も江戸時代につくられた。
明治期、鉄道網の整備で大阪の近郊都市、住宅都市として発展
四條畷市エリアが大阪府の管轄下に入ったのは1881年(明治14年)、1895年(明治28年)に、JR学研都市線(当時の私鉄浪速鉄道、関西鉄道)が片町、四條畷駅間に開通して大阪と直結するようになる。 昭和に入ると30年代後半から人口増加の兆しが見え始め、大阪市の近郊都市として四條畷地区を中心として開発が進んだ。JR学研都市線の複線化とともに急激な都市化が進み、昭和45年に府内30番目の市として四條畷市が誕生した。
その後も大都市近郊都市して発展を遂げる。田原地区が関西文化化学技術研究都市に指定されると、それに沿った開発が進められ、田原台などの新興住宅地が誕生した。
四條畷は全国難読地名のひとつに数えられる。また、漢字表記は、「條」の文字がたびたび「四条畷」とされることがあり、2003年までの市内郵便局は「四条畷」と表記されていた。また、JR西日本の駅名も「四条畷駅」だ。しかし、市の固有名詞としては、四條畷村発足以来一貫して「四條畷」と表記するのが正式である。「条」は「條」の略字であるが、戦後「条」が当用漢字に昇格したため「四条畷」と表記されることに繋がったとされる。
この問題は結構根が深く、四條畷市はJR西日本に駅名の変更を申し入れているが、JR西日本側が「駅名変更は地元からの要望で行なうが、費用は自治体の全額負担」としており、さらに費用は数億円かかるため市側での負担が困難な状態で、現在も駅名は変更されていない。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)