大阪府大阪市平野区の特徴
― ニッポンの自治体 ―
大阪市の行政区でもっとも多い人口を抱える住宅都市
大阪市平野区は同市の東南部にあり、東は八尾市、西は東住吉区、南は松原市、北は生野区及び東大阪市に接している。同区の総面積は15.28平方キロメートルで、住之江区、此花区に次ぐ3番目に大きな面積の行政区となっている。
大阪府・大阪市平野区のマンション
2018年に大阪府・大阪市平野区で新築されたマンションは100戸。中古マンション相場価格は1960万円~2940万円だった。
2019年1月現在、平野区の人口は19万6866人で、総世帯数は9万8131世帯だった。行政区の人口として平野区の人口は、大阪市24区でもっとも多い。なお、世帯数は淀川区、東淀川区に次ぐ3番目である。
平野の地名は平安時代から記録に残っている。古くは摂津国住吉郡平野庄と呼ばれ征夷大将軍・坂上田村麻呂の次男で平野の開発領主となった坂上広野を「平野殿」と呼んだとされる。
戦国の世では、坂上広野の子孫という平野家一族の末吉家を筆頭に、平野七名家と呼ばれた氏族が自治権を掌握して自衛した土地だとされている。
大坂夏の陣では、徳川家康が本陣とした場所でもあり、その旧跡も残っている。区内には江戸時代初期に定められた町割を現在も保っている地域が存在している。江戸時代に当地は、綿花の集積地として栄えたために綿花が区の花と定められている。
1974年(昭和49年)に住吉区より分区した比較的新しい行政区
1925年(大正14年)の大阪市第2次市域拡張により、現区域にあたる東成郡平野郷町、喜連村、北百済村、田辺町が大阪市に編入となり大阪市住吉区となる。1943年(昭和18年)、大阪市の行政区境界見直しで、住吉区は住吉区、阿倍野区、東住吉区の3行政区に分離した。1974年(昭和49年)、住吉区から分離して平野区が誕生した。
現在の平野区は、おおむね住宅地だが、南部の喜連・瓜破・長吉地域は市営住宅や中高層マンションなどが建ち並ぶ比較的新しい街並みが広がる。ただ、いまだに農地も点在するエリアでもある。
中央部の平野地域は、古い家々と多数の神社・仏閣が存在する街並み。北部の加美地域は、どちらかというと工業地区である。ある意味で平野区はバラエティに富んだ街としての顔を持つ。
地域は平野区の中央部に位置し、区役所、保健センター、郵便局などの公共施設や商店街、大型店舗などが立地する利便性の高い地域だ。東西に交通量の多い国道25号や柴谷平野線(南港通)が走る。また、区内で公営住宅が最も少ない地域で最も高齢化が進んでいる街でもある。
加美地域は平野区のなかで工場の多い地域だ。正覚寺集落、鞍作集落を中心に形成された市街地を囲むように、耕地整理された整然とした区画が形成され、城東貨物線・旧竜華操車場周辺に工場のある街並みが広がる。町工場も多く立地し、産業の営みが身近に感じられる街だ。また、加美地域の東側には農地も残るが、近年大規模マンションが増え、街並みは日々変化している。
待たれる鉄道および道路交通網の整備
かつて同区内にはチンチン電車の南海平野線が走っており、区内に西平野、平野の2カ所の停留所があった。しかし、人口の急増で輸送力に限界が生まれ、1980年(昭和55年)11月の地下鉄谷町線延伸により地下鉄に引き継がれ廃線となった。
現在、同区内の鉄道交通網は、北部をJR大和路線、中央部から東南部は地下鉄谷町線が走り、それぞれ大阪市の中央部と直結している。しかし、いずれも東西に走っており、南北の交通網は道路の整備とともに遅れているといえる。そのため、鉄道において大阪外環状線の早期全線開通が待たれる。
都市計画道路では「平野瓜破線」が一部開通(喜連東 3丁目~平野南3丁目間)を見たものの、「加美平野線」と併せて早期完成が望まれている。
同区内にはユニークな公立高校として、全国で唯一とされる「芸能文化科」が設置されている大阪府立東住吉高等学校がある。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)