大阪府羽曳野市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
かつて大規模な古墳群の街は、鉄道開通とともに衛星都市に発展
大阪府羽曳野市は、大阪府の南東部に位置し、生駒、信貴、金剛、葛城山系に囲まれた河内平野にある。東は二上山系を経て奈良県香芝市に接する。西は堺市と松原市に、南は富田林市と太子町にそれぞれ接している。また、北は藤井寺市と柏原市に隣接。東部には二上山系の斜面を利用して広大な果樹園が形成されている。南西部には、羽曳野丘陵地帯があり、なだらかな丘陵・山麓地の自然に培われた山紫水明の地で、昔から農産物の栽培に適し、夏の味覚「ぶどう」や関西地区ではもっとも多い生産量を誇る「いちじく」は、特産品として有名だ。また、大阪市の中心から約20km圏内にあり、交通の便(近鉄南大阪線、大阪外環状線)もよく、大阪市内へのアクセスは、30分程度だ。
大阪府・羽曳野市のマンション
2018年、大阪府・羽曳野市で販売された中古マンション相場価格は1890万円~2310万円だった。
2019年1月現在、羽曳野市の人口は、同市の発表によると11万1955人で、総世帯数は4万9976世帯である。市域は東西7.5km、南北4.1kmで、総面積は18.27平方キロメートルだ。
羽曳野市の外国人登録者数は1000人弱。これは羽曳野市の総人口0.87パーセントにあたる。国籍別の内訳では、約60%が韓国・朝鮮、約20%が中国で、全体の約80%を占める。このうち約8割(羽曳野市の外国人住民全体の約3分の2)は、「オールドカマー」と呼ばれる昭和20年以前にさまざまな理由で移住することになった朝鮮半島出身者やその子孫の住民だ。近年では、そのオールドカマーも、高齢化による自然減や帰化による日本国籍取得によって、外国人登録者数にあらわれる数字としては少なくなってきた。逆に、就労目的で日本に入国してくる中国・フィリピンなどの外国人住民、いわゆる「ニューカマー」が多くなってきている。
国内最大級の古墳群が造営され、多くの歴史遺産がある街
羽曳野近辺に人の集落ができたのは、今から約2万年前の旧石器時代末頃とされている。弥生時代になると農業を基本とした集落が数多く形成され、古墳時代には全国でも最大の古墳群である「古市古墳群」が造営されるなど、著しい発展を遂げた。奈良時代に入ると、仏教文化の中心地帯となり難波宮から大和の飛鳥京を結ぶ竹内街道がつくられ、古市寺(西琳寺)・善正寺をはじめ、次々と寺院がつくられる。
11世紀前期、源頼信が河内の国司に任ぜられて以来、頼義、義家までの3代が河内源氏として壺井の里に居住し、通法寺、壺井八幡宮を建立。また、源頼朝は全国平定の記念として誉田八幡宮にみこし(国宝)を寄進している。
南北朝以降、古市の高屋城を中心に何度か戦場となり、由緒ある神社や寺院などを失った羽曳野周辺は、戦国末期になると織田信長によって平定される。
次いで、豊臣秀吉が治めて、石田三成らにより検地が行なわれた。
豊臣氏の滅亡後は、江戸幕府の支配地となり、小藩分立の厳しい政策がとられた。一方で、河川の改修工事や新田開発も行なわれ、綿花の栽培も盛んとなる。江戸中期以降は、古市代官所が設けられ、竹内街道と東高野街道が交差する交通の要衝として発展、両替商「銀屋」や河内木綿などを運んで石川を上下した剣先舟の船着場が設けられるようになるなど、河内有数の繁盛ぶりだったと伝えられる。
明治にはいり鉄道網の急速な整備によって大阪市の近郊都市に発展
1889年(明治22年)、市町村例により各村落が統合されて高鷲村、丹比村、埴生村、古市村、西浦村、駒ケ谷村となる。1898年(明治31年)には、柏原~富田林間に河陽鉄道が開通し、人口が増えた古市村は1916年(大正5年)に町制を施行。1923年(大正12年)には阿部野橋~道明寺間に大阪鉄道が開通して大阪市との結びつきが強まり、大阪市郊外住宅地としても発展、1955年(昭和30年)に高鷲村も町制を施行しました。
1956年(昭和31年)9月、町村合併促進法により、古市・高鷲・丹比・埴生・西浦・駒ケ谷の2町4村が合併して南大阪町が誕生。11959年(昭和34年)1月に市制施行して名称を羽曳野市とした。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)