大阪府富田林市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
緑豊かな丘陵と美しい田園地帯、ニュータウンとバランス良い街
大阪府富田林市は、大阪府の東南部に位置する、自然と歴史に恵まれたエリアだ。市の北東平坦部は、南北に流れる石川をはさんで平野が広がり、古くから市街地が開けた。なかでも寺内町には歴史的に貴重な町並みが残されている。
一方、市の南部は、雄大な金剛・葛城連峰を背景に緑豊かな丘陵と美しい田園風景が広がり、豊かな自然に恵まれたエリアだ。また、西部丘陵地域は、計画的に開発の進んだ環境水準の高いニュータウンとなっている。
1950年(昭和25年)4月に人口約3万人余で、大阪府下16番目の市として市制施行した。
大阪府・富田林市のマンション
2018年、大阪府・富田林市で販売された新築マンションは36戸で、相場価格は2968万円~3083万円。同年、市内の中古マンション相場価格は1820万円~2240万円だった。
2019年1月現在、富田林市の人口は、同市の発表によると11万1898人で、総世帯数は5万911世帯である。市域総面積は39.72平方キロメートルだ。
近年は、人口が漸減し街の活性化が課題となっており大阪芸術大学(河南町)と地域の課題解決や地域の振興に共同で取り組むための協定を締結するなど積極的に市の魅力の情報発信を行なっている。
市域には古くから人々が住まい、歴史的建造物が残る街
富田林は石器時代から人々が暮らし、弥生時代には二上山周辺に産出するサヌカイトを利用した石器が喜志や中野において大量に生産され、交易を通じて近畿地方に広く流通していたとされる。また、石川を望む丘陵上には石川流域に繁栄した氏族首長たちの古墳が多く残されている。
大陸から仏教文化が、この富田林にも伝えられ、新堂廃寺などの寺院が建立された。同時に織物などの新しい文化を伝えられ、この地で発展した推測されている。
平安時代には、今も秋祭りなどでにぎわう美具久留御魂神社や佐備神社が建立され、室町時代になって錦織神社も創建された。
16世紀のなかごろの永禄年間に、京都興正寺門跡第16世証秀上人が「富田の芝」と呼ばれていた荒地を買い受け、寺と町衆の協力によって寺内町が造営された。浄土真宗の御坊を中心に形成された寺内町「富田林」は、江戸期には周辺地域の商品・産品流通の中核地として発展した。
現在、歴史的建造物からなる街並みが保存され重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
大阪市近郊の住宅地として大規模開発された住宅都市
明治に入って、郡役場や税務署、旧制中学校、高等女学校等の施設が整備され、南河内地域の中心地として発展する。
戦後の市制施行後の高度成長期になると、大阪市近郊の住宅地として大規模な住宅開発が進み人口が急増、これにあわせて都市基盤整備も進展した。
富田林は、その歴史的経緯を概観すると、古の時代から大陸の新しい文化を積極的に受け入れ、中世以降の封建的な時代においても一定の自治権を有し、寺内町を中心に独自の街づくりを進め、南河内地域の中核を担ってきた。また近代においても、石川や、田園地帯に広がる農地、山林等、自然の恩恵を受け、自然と人々が共存してきた街である。
市の鉄道中心駅は近鉄長野線の富田林駅。この富田林駅を境に西側が金剛ニュータウンで、東側が旧市街地と分かれており、金剛ニュータウンの住民は大阪狭山市にある金剛駅を利用することが多い。市の西側は南河内でも有数の閑静な住宅街だ。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)