大阪府大阪市港区の特徴
― ニッポンの自治体 ―
古くから大阪の“海の玄関口”として発展、戦後の都市整備で整然とした街に
大阪市港区は同市の西部に位置する東西に細長い形をした区で、安治川と尻無川にはさまれ、大阪港を擁する海の玄関口に位置する。
同区域は、かつては淀川の河口に発達した低湿な三角州だった。江戸時代に入って河村瑞賢が淀川下流の治水対策のために安治川(開削当時は“新川”と呼ばれた)を開削し、市岡新田をはじめとする大規模な新田開発が進んだ。1897年(明治30年)の第1次大阪市域拡張により大阪市に編入され、天保山周辺において築港工事が開始。安治川と尻無川による水運に適した地域であり、大阪の海の玄関口として大きく発展した。
大阪市・港区のマンション
2018年に大阪府・大阪市港区で建設完成した新築マンションは93戸で、相場価格は3491万円。中古マンション相場価格は2170万円~4620万円だった。
大阪市港区は、大阪市の西部に位置する東西に細長い自治区だ。安治川と尻無川にはさまれ、大阪港を擁する海の玄関口に位置する。同区の総面積は7.86平方キロメートル。2019年1月現在、港区の人口は、8万1301人で、総世帯数は4万3778世帯。
市電「築港線」開通と築港大桟橋の完成で飛躍的に発展
1903年(明治36年)9月12日、花園橋(現在の九条新道交差点)から築港桟橋(大阪港)を結ぶ市電「築港線」が開通。全長約5kmの路線に10カ所の停留所が開設され、料金は1区間1銭・全線片道4銭だったという。同時に完成した築港大桟橋への通勤客のほか、魚釣りや夕涼みに出かける乗客が利用し、市電の名物だった二階建て電車は「魚釣り電車」「納涼電車」の愛称で親しまれた。
大阪市電は新しい交通手段として路線を拡充し、最盛期の1943年(昭和18年)総営業キロ114km、車両数833両、1日の乗客数143万人が利用した。その後、1969年(昭和44年)に惜しまれながら廃線となった。
西区・北区から分区し港区誕生、大阪港の発展と共に製造業発達
1925年(大正14年)、西区・北区から分離して港区が誕生。大阪港の発展で海運業や流通業が集積、金属・機械を中心とする製造業が一挙に発達した。港区は区誕生以降、一貫して大阪市で最も多い人口を擁していた。が、1932年(昭和7年)に岩崎運河以南で尻無川以東を分離して大正区とした。
港区は先の大戦の大阪大空襲で、もっとも被害の大きな地域となった。
第二次大戦後は度重なる台風などによる風水害で復興が遅れたものの、港湾整備や493ヘクタールにおよぶ広大な土地に2mの盛土を施した区画整理が実施されるに至り、区内の約87%が整然とした街並みに整備された。1961年(昭和36年)に国鉄(現JR)大阪環状線と市営地下鉄4号線(現中央線)が開通。両線が交差する弁天町駅は、交通の要衝となった。
また、東西に国道172号(みなと通)・大阪市道築港深江線(中央大通)・阪神高速16号大阪港線、南北に国道43号・阪神高速17号西大阪線、海岸部を阪神高速4・5号湾岸線が通り、鉄道・道路ともに交通が非常によく整備された地域となった。
近年、港湾機能の中心は天保山から南港などに移ったが、ウォーターフロント開発により天保山に世界最大級の水族館「海遊館」などの集客施設が集積し、弁天町駅前には「オーク200」などの200mクラスの超高層ビルが建ち並び、賑わいの拠点づくりが進んだ。市立運動場は戦後「八幡屋公園」として整備され、現在は「大阪市中央体育館」「大阪プール」が建つ、国際的スポーツの一大拠点となっている。
港区は、新しい街としての賑わいがある一方、住民どうしの交流が活発な下町情緒あふれる住宅地でもある。
著:吉田 恒道(公開日:2019.12.26)