大阪府大阪市城東区の特徴
― ニッポンの自治体 ―
人口密度、日本一の行政区・住宅都市は明治時代から繁栄した工業地帯
大阪市城東区は、大阪城の東に位置し、東西に寝屋川と第二寝屋川が流れ、南北に城北川、平野川、平野川分水路が通じるなど、多くの河川が流れる行政区だ。同区の総面積は8.38平方キロメートル。
大阪府・大阪市城東区のマンション
2018年に大阪府・大阪市城東区で販売された新築マンションは384戸で、相場価格は3701万円~5688万円だった。中古マンション相場価格は2310万円~4130万円だ。
2019年1月現在、人口は16万9986人で、総世帯数は8万6278世帯。大阪市内24区の中でだけでなく、全国の政令指定都市の全行政区の中でも、人口密度がもっとも高い。
明治期からの鉄道整備で一大工業地帯として発展
城東区域、古代は上町台地東側の入り江で難波江と呼ばれた海だったが、淀川と旧大和川が運んだ土砂によって次第に陸地となり、その後多くの集落が生まれた。豊臣秀吉による大坂城築城により京街道が通る交通の要衝となり、江戸時代には舟運の中継基地として繁栄した。
淀川と旧大和川の合流する地点は土地が低かったため、度々洪水に見舞われたが、大和川が現在の流路に改善されてからは洪水の被害が減少し、新田開発も行なわれた。
城東区は、1943年(昭和18年)4月、大阪市の22区制実施にともない、東成区の北部地域と旭区の南部地域とともに分区独立し誕生した。
城東区には明治時代、いち早く鉄道が開通したことで、陸軍関連の兵器工場や紡績工場が進出し、それらの関連産業が集まり発展した。寝屋川や第二寝屋川沿岸の軍関連工場に納品すべく金属・機械・化学関係の工場が集中するようになったわけだ。同時に、区内南部には衣料・縫製関係の事業所が集中し一大工業地帯として発展する。
1945年(昭和20年)の大阪大空襲で、城東区および東・都島・東成各区の軍事施設が爆撃され、同区内の大阪砲兵工廠は壊滅的な打撃を受け、造兵廠に隣接する鴫野・天王田・放出地区なども大きな被害を受けた。この際、京橋駅も爆撃によって破壊され、乗降客に多数の死傷者が出たと記録されている。
大戦により大きな被害を受けた城東区だが、戦後の復興はいち早く行なわれた。区内のほとんどの地域において区画整理が行なわれ、城北運河の西側はほとんどが市街化された。同時に、1950年に勃発した朝鮮戦争の特需による好景気に支えられ、再び工業生産が回復。寝屋川・第二寝屋川沿いや城北川を中心に金属・機械・化学関係の工場が集中的に建設された。城東区は、生野区、東成区とともに市内東部の工業地帯を形成することとなる。
かつての大工場跡地に高層マンション建設が相次ぐ、交通至便な住宅都市
現在、同区内北東部の関目・菫地区は、戦前から実施された土地区画整理事業により、緑の多い整然とした街区が維持されている。また西南部の森之宮地区の陸軍砲兵工廠跡地にはJR・地下鉄の車庫や高層住宅団地となっている。さらに鴫野地区も再開発により新たな高層住宅群が出現するなど、街並みは大きな変貌をとげた。近年、同区内の工場などの転出跡地は、高層マンションや大規模小売店が相次いで建設され、後述する多様な鉄道・道路交通網と相まってきわめて至便な住宅都市となっている。
城東区は鉄道交通網が整った行政区だ。現在、地下鉄谷町線、長堀鶴見緑地線、今里筋線、中央線、JR学研都市線、京阪電鉄の各鉄道が区内を走る。また、現在進められている、おおさか東線の整備など、公共交通機関の充実により利便性の一層の向上が見込まれる。
道路交通網では東西方向に古市清水線(国道163号)、東野田茨田線(鶴見通り)、片町徳庵線(城見通り)、中央大通り。南北方向には、新庄大和川線、森小路大和川線、豊里矢田線(一部未完成)、区内中央部をカギ型に国道1号が走り、都心へのアクセスも良好な交通インフラが揃ったエリアといえる。
著:吉田 恒道(公開日:2019.12.26)