大阪府松原市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
大阪都心への良好なアクセスで発展した衛星都市、田園住宅都市
大阪府松原市は、大阪府のほぼ中央に位置し、大阪市、堺市、羽曳野市、藤井寺市に接している。市域は東西約5.8km、南北約5.1km、面積は16.66平方キロメートルで、ほぼ平坦地となっている。
1955年(昭和30年)2月、大阪府下21番目の市、人口約3万6000人の田園都市として市制施行した。交通が至便なことから、1960年代に人口が急増し、現在約12万人の住宅都市に変貌した。
また、市内には西名阪自動車道や阪神高速道路松原線、国道309号線、中央環状線、近畿自動車道、阪和自動車道などが貫通し、南大阪における道路交通の要衝となっている。
大阪府・松原市のマンション
2018年、大阪府・松原市で販売された中古マンション相場価格は1540万円~2730万円だった。
2019年1月現在、松原市の人口は、同市の発表によると12万321人で、総世帯数は5万6271世帯である。大阪市の中心部から電車で約10分という地理的利便性から、住宅都市として発展した。
松原市域は、温和な気候と住みやすい地理的環境により、古くから人々が住む集落が存在した。なかでも上田町遺跡や河合遺跡によって、弥生時代から丹比野の平坦地に人々が農耕生活をしていたことが分かっている。
古代から人々が集落を形成した田園地帯
古墳時代になって、丹比新堂遺跡、上田町遺跡、大和川、今池遺跡によって分かったのは、狭山池や依羅(よさみ)池、また数多くの灌漑用水路が作られて大規模な水田が開拓されたことだ。
倭の五王時代(古墳時代中期)には、竹内街道が通り、難波より飛鳥への交通の要衝として栄え、多くの大陸文化がもたらされたとされる。
日本書紀には、第18代反正天皇が、この地に丹比柴籬宮(たじひしばがきのみや)を置き、わが国の政治・経済・文化の中心地となった。その後、丹比柴籬宮跡は、「松生いし丹比の松原」といわれるようになり、松原の地名の由来となったと伝えられている。また、この時代に作られたとされる全国で5番目に大きい前方後円墳の大塚山古墳がある。
奈良、平安時代には、さらに交通網が整備され、長尾街道の西除川付近では、駅屋(うまや)という古代交通の施設が作られ、中高野街道が整備された。この時代に書かれた「和名抄」により、依羅(よさみ)郷、三宅郷,土師郷、丹上郷、丹下郷、八下郷の村落の存在したことが分かっている。その後、それぞれの郷は、国司の支配から解かれて荘園に変わる。
南北朝から戦国時代までは、内乱が続き、各地に砦や城が築かれ、大堀塁、丹下城、松原城、三宅砦、別所城、一津屋城などが築城された。江戸時代になると、高木主水正正次は一万石を領して丹南村に陣屋をおく。
大阪都心からアクセスが良好な住宅都市
1889年(明治22年)の全国的な市町村制施行により、松原(まつばら)村、天美(あまみ)村、布忍(ぬのせ)村、恵我(えが)村が誕生。1896年(明治29年)に三宅(みやけ)村が中河内郡に属し、1942年(昭和17年)7月に松原村、1947年(昭和22年)に天美村がそれぞれ町となる。
冒頭で述べたように、1955年(昭和30年)2月1日、前述の2町3村が町村合併促進法により合併して、府内21番目の市として、松原市が誕生した。その後、美原町の丹南(たんなん)、堺市の河合(かわい)を合併、若林の一部が八尾市に編入されて現在の市域となる。
平成に入り阪和自動車道が開通、松原ジャンクション道路整備が完成するなど交通網が充実。
鉄道は近畿日本鉄道が、市内の北西部から南東部に斜めに貫くような形で路線を敷いている(近鉄南大阪線)。沿線部以外の地域に住む場合には、同じく近鉄が運営する路線バスの利用が必要となる。
現在、市域にはこれといった基幹産業はなく、自主財源比率は良好とはいえない。なお、指定されるシンボル、市の木は「マツ」で、市の花は「バラ」である。あわせて「マツバラ」という洒落た発想でもある。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)