大阪府高石市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
鉄道・道路交通網が整備、大阪市へのアクセスに恵まれたコンパクトシティ
大阪府高石市は、大阪府の南部に位置し、北と東は堺市に、南は和泉市・泉大津市にそれぞれ隣接し、西は大阪湾に面している。
交通網は、府道堺阪南線、国道26号、府道和泉泉南線、大阪湾岸線などの主要道路とともに、南海本線とJR阪和線の鉄道が南北に走る。
なお、高石・羽衣・富木3駅から大阪の中心部まで約20分、また関西国際空港にも20数kmと近く、温暖な気候と相まって、便利で住み良い住宅地として発展してきた。
大阪府・高石市のマンション
2018年、大阪府・高石市で販売された中古マンション相場価格は1890万円~3150万円だった。
2019年1月現在、高石市の人口は、同市の発表によると5万7875人で、総世帯数は2万5590世帯である。東西6.1km、南北4.1km、総面積は11.30平方キロメートルの大阪府下で藤井寺市(8.89平方キロメートル)に次ぐコンパクトシティである。
高石市では、将来的に発生が懸念されている南海トラフ巨大地震対策など、「災害に強い街づくり」して、市民参加の大規模な避難訓練や津波避難ビル・避難タワーの確保など全市を挙げて取り組んでいる。
取り組みのひとつとして、大規模災害や庁舎火災などの不測の事態に備え、基幹系業務システムのデータ保全性や業務の継続性を確保するために、「災害に強いシステムへの再構築」を目的として、2010年(平成22年)から総務省が推奨している共同利用型自治体クラウドの導入を決定し、忠岡町とともに、システムの再構築に取り組んだ。
百人一首にも謳われる古くからの景勝地
百人一首で「音に聞く高師浜の……」と詠われた高石の地は「高脚」とも書き、その昔からの白砂青松の美しい所として天下に知られ、持統天皇の御代世に各地に禁断漁猟区域が制定された際には、「準河内国高脚海」と「高師浜」の地が環境基準とされたほどだ。
同市はかつて和泉国大鳥郡に属し、江戸時代には幕府の直轄地で、庄屋が村務を扱っていたが、1875年(明治5年)に日本でもグレコリオ暦(太陽暦)が採用された。同時に戸長制度が布かれ、堺県和泉国第1区・第5区に分割所属し、のち第2区第1小区と第4小区に改められた。
また、上古に百済の博士、王仁(わに)がその一族の工芸技術家たちをつれて来朝し、同市大工村(現在の高師浜の一部)の村民の大半は大工を家業として、明治維新までは京都御所の内匠(たくみ)寮の支配下にあった。大工以外の住民は、おおむね農業・漁業を営み、風光明媚な農漁村として大きな盛衰もなく近世に至る。
明治期より都市基盤整備が進んだ街、臨海部は工業都市
1880年(明治13年)4月、第2連合戸長役場の管轄になり、1884年(明治17年)7月には高石南村、高石北村、今在家村と新村の4カ村で第9戸長役場を設置。ここに初めて現在の高石市の基礎が確立される。そして、1889年(明治22年4月)、全国的な町村制度で、高石村(人口3,307、世帯610)として地方自治の第一歩を踏み出した。また、1896年(明治29年)4月、大鳥郡から泉北郡に変わりました。
1901年(明治34年)3月、葛の葉駅(現高石駅)が開設し、その後、日露戦役の際に海浜地帯13万坪に俘虜(ふりょ)収容所が置かれた。撤去後、道路や下水溝を新設、良好な住宅地として都市基盤を備え、めざましい進展を示す。1915年(大正4年)1月に、人口4809人、世帯数935で町制を施行した。
その後、1953年(昭和28年)4月に、東部に隣接する旧取石村を編入合併して、6.19平方キロメートルの町域を有する。その後、人口の急増や臨海工業用地の造成などにより急速に発展し、1976年(昭和41年)11月1日、人口4万7650人、世帯数1万2325世帯の高石市が発足する。
大阪湾沿岸の埋立地には、堺泉北臨海工業地帯が広がっており、高石市域には、石油・化学の工場が集積している。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)