神奈川県横浜市鶴見区の特徴
― ニッポンの自治体 ―
京浜工業地帯の中核地、だが商業・住宅都市としての顔も
鶴見区は、横浜市の北東部に位置し、北西部の丘陵地、鶴見川流域の低地、臨海部の埋立地から形成され、そのほとんどは市街地だ。臨海部は工業地帯、中心部は商業・住宅地域となっているものの、住工混在地区も見られる。また、丘陵部は、区内では数少ない自然が残された住宅街区だ。1927年(昭和2年)、横浜市の区制施行によって横浜5区のひとつとして誕生した鶴見区は、工業地帯としての顔だけでなく、商業都市、住宅都市としての顔も兼ね備える。横浜ベイブリッジで横浜市中区につながる。
神奈川県・横浜市鶴見区のマンション
2018年、神奈川県・横浜市鶴見区で販売された新築マンションは589戸、相場価格は3607万円~6134万円だった。同区内の中古マンション相場価格は1680万円~5950万円だ。
2019年1月現在、鶴見区の人口は、29万3569人。総世帯数は14万5787世帯だ。外国人登録者は1万2902人だった。区の人口に占める割合は約4.2%で、市内平均の2.1%と比べ構成比が高い。国籍別に見ると中国、韓国・朝鮮、ブラジル、フィリピンの順に多く、市全体と比べるとブラジル人の構成比が大きいのが特徴である。
同区の総面積は、32.38平方キロメートルである。
江戸末期、国際的な外交問題のきっかけ「生麦事件」発生の地
江戸時代末期、現在の鶴見区生麦で外交問題に発展する国際的な大事件が発生する。「生麦事件」だ。1858年(安政5年)6月19日に日米通商条約が調印され、翌1859年6月2日に横浜港が開港。横浜には外国人居留地ができ、多くの欧米人が住むようになった。1862年(文久2年)8月21日、日曜日の行楽に馬で出かけていた英国人4名が生麦村の旧東海道を通っていた薩摩藩の大名行列に遭遇、警護の武士に斬りつけられ殺傷される事件が起きた。その事件をいまに伝える「生麦事件碑」が横浜市鶴見区生麦1丁目、国道15号線と旧東海道の交流地点であるキリンビール横浜工場の一角に建っている。
生麦事件から10年、1872年(明治5年)9月12日、新橋~横浜間鉄道開通、13日に鶴見駅開業、鶴見区発展の基礎的交通インフラが整った。
古くからの農村が、京浜工業地帯の中核エリアとして発展
鶴見といえば、京浜工業地帯の中核であり、工場からの煙と労働者の街というイメージが今でも残っている。しかし、鶴見区は古くから農業が盛んで、生麦事件が起きた頃には、居留地の外国人や外国船員たちの需要に応えるため、トマト・キャベツ・レタス・ニンジンなどの西洋野菜作りが行なわれるようになった。横浜開港後の鶴見区は日本における初の西洋野菜生産拠点だった。
大正時代になると鶴見で、後の浅野財閥の総帥で浅野セメント創始者である浅野総一郎は、安田財閥の安田善次郎氏たちの出資を得て埋め立て事業を始めた。大正時代末に、埋立地が造成されると、旭硝子・浅野セメント・日本鋼管製鉄所・浅野造船製鉄所・スタンダード石油・ライジングサン石油・三井物産などの工場が建設された。これが後に大規模な臨海工業地帯として発展する。埋め立て事業はさらに進んで大黒ふ頭などの完成につながる。1989年には横浜ベイブリッジが開通した。
横浜市鶴見区は職員の人事交流などを含めた友好都市協定を福島県棚倉町、福島県西会津町、石川県輪島市の3自治体と結んでいる。鶴見区は今年、2017年10月1日に区制90周年を迎えた。さまざまな記念事業を行なっている。
著:吉田 恒道(公開日:2019.12.26)