神奈川県小田原市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
かつての東海道五十三次・屈指の宿場町。いま、箱根観光の拠点「おだわら」
神奈川県小田原市は、同県のほぼ南西端に位置し、酒匂川流域の足柄平野を中心に、東は大磯丘陵、西は箱根に連なる火山の外輪山の跡地である山地で構成される。同市の総面積は、113.81平方キロメートルと広い。
江戸時代には、東海道五十三次の屈指の宿場町として、小田原城を中心に商業・文化が栄えた。
神奈川県・小田原市のマンション
2018年、神奈川県・小田原市で供給された新築マンションは57戸だが、相場価格は不明。同市内の中古マンション相場価格は1820万円~5040万円だった。
2019年1月現在、神奈川県小田原市の人口は、鎌倉市の発表によると19万1557人。総世帯数は8万7342世帯の特例市だ。
戦国時代、最大規模を誇った小田原城、その城下町
小田原は、戦国時代・15世紀末に北条早雲が小田原城を奪取し、以後5代約100年にわたり、北条氏の平和的な支配が続いた。その後、北条氏は関東一円を支配した。上杉謙信や武田信玄からの侵攻にも耐えた小田原城は、難攻不落の城といわれ、全長9kmにもおよぶ城郭は、戦国時代最大の規模を誇る。
しかし1590年、豊臣秀吉が石垣山に一夜城を築き、25万の兵を率いて小田原城を攻め落城、戦国時代が終演し、秀吉によって全国統一がなされた。
北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修されました。その後、大久保氏の改易にあたり、城は破却されましたが、稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新された。
貞享3年(1686)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至る。
小田原城は、1870年(明治3年)に廃城となり、城内の多くの建物は解体された。後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに1901年(明治34年)には、二の丸に御用邸を建設。しかし、1923年(大正12年)9月の関東大震災で石垣を含めてほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われた。
その後、1934年(昭和9年)に隅櫓が再建され、1960年(昭和35年)5月に、廃城以来90年ぶりに待望の天守閣が復興となった。
明治以降、政財界人や文化人たちに愛された街
小田原は1871年(明治4年)、廃藩置県により小田原県となり、さらに同年、足柄県となった。1976年(明治9年)には足柄県が廃され神奈川県の所管となり県庁の支庁が設けられた。1889年(明治22年)に、東海道本線が全線開通したが、箱根山を避けて国府津から御殿場へ抜けたことにより、宿場町としての小田原は衰退するも、風光明媚な環境を生かし、保養地・観光地として活路を見出す。
小田原の海沿いは、明治期には政財界人や文化人たちの「別荘、居住地」として有名になる。そこには、伊藤博文や山縣有朋、大隈重信など、近代日本の幕開けを担った多くの政財界人や軍人が移り住み、居を構えた。大正時代になると、北原白秋や谷崎潤一郎、三好達治など多くの著名な文学者が暮らした。
1940年(昭和15年)12月、小田原町・足柄町・大窪村・早川村・酒匂村の一部が合併し、面積57.54平方キロメートル、人口5万4699人、世帯数1万0749世帯で市制を施行、小田原市が誕生した。
いまでも、緑豊かな山、清らかな川、雄大な海、肥沃な平野、そして温暖な気候。多くの先人によって築かれた長い歴史と伝統・文化が息づく街だ。神奈川県西部の中心都市で、箱根観光の拠点でもある。
鉄道網、道路交通網の要衝として発展
小田原は鉄道交通網の要衝でもある。現在、JR東海道本線、JR東海道新幹線、JR御殿場線、小田急小田原線、箱根登山鉄道、伊豆箱根鉄道大雄山線の5社6路線が乗り入れ、市内には18の駅があり、鉄道交通は極めて至便な街といえる。
小田原駅は新幹線や小田急ロマンスカーの発着駅であり、都心へのアクセスも容易。JR小田原駅・国府津駅からは、特別快速(湘南新宿ライン)や、通勤時間帯のホームライナー(定員制の快速列車)が運行しているため、都心への移動がますます容易になった。東海道新幹線の「ひかり号」の一部は、小田原駅に停車する。
整備された道路網も秀逸だ。自動車専用道路として東京方面から東名高速道路とつながる「小田原厚木道路」、横浜南部・鎌倉方面からは「西湘バイパス」が、また箱根方面へは「MAZDAターンパイク箱根」が通っている。
一般道は、東京・横浜方面から箱根方面へは「国道1号」「箱根新道」、湯河原・熱海・伊豆方面へは「国道135号」、渋谷~沼津を結ぶ国道246号へは「国道255号」がそれぞれ通り、自動車移動の利便性は極めて高い。
小田原は昔から相模湾西部の漁業の中心地として栄え、海の幸に恵まれてきた。なかでも全国的に有名なのが定置網漁業だ。小田原の海域は急深な地形であり、岸から沖へ1500mも離れれば水深が200mに達するため、この深い海底地形に適した定置網が発達。さまざまな魚が水揚げされることにより水産加工品の製造も盛んだ。とくに蒲鉾は小田原の特産品として全国的に有名だ。
著:吉田 恒道(公開日:2019.12.26)