大阪府大阪市都島区の特徴
― ニッポンの自治体 ―
明治の淀川大洪水で実施した河川改修以降、変貌を遂げたエリア
大阪市都島区(みやこじまく)は、大阪市の北東部に位置し、大阪市を構成する24区の行政区のひとつだ。南部は京橋を中心とした繁華街、中北部は住宅地となっている。なかでも北部は、1980年代から工場跡地を活用した超高層マンションの建設が進んだ。
大阪市・都島区のマンション
2018年に大阪府・大阪市都島区で販売された新築マンションは534戸。価格相場は、3806万円~4293万円で、中古マンション相場価格は2310万円~4760万円だった。都島区の総面積は6.08平方キロメートルである。
2019年1月現在、都島区の人口は、10万4854人で、総世帯数は5万5965世帯となっている。
秀吉による統治時代に発展し、江戸時代「天下の台所」が花開く
同区域は、全域が大阪平野にあり、おおむね平地で構成される。南部は寝屋川、西部は大川、北西部に淀川がながれ区境界となっている。かつて、都島通南の城東区境界に寝屋川と大川をつなぐ榎並川が流れていたが、1950年代後半になって埋め立てられ道路や公園となった。「桜小橋」の地名は、その名残である。
同区は1941年(昭和16年)、北区と旭区から分離・再編して発足した。区名の由来は、長柄豊崎宮の東岸(向かい側)に位置してことから「宮向島(みやこうじま)」という名が転訛したという説と、単純に都があったことから付いたという説のふたつが有力だ。
同エリアは豊臣秀吉統治時代に発展し、なかでも南部の京橋あたりが、京街道(現在の国道1号)の宿場として賑わうようになったとされる。
江戸時代に入ると、現在の都島通以北の地域が都市近郊農村として開墾される。この時代に、「天下の台所、大坂」の三大市場と称された天満青物市場、雑喉場(ざこば)魚市場、堂島米市場の青物市場発祥が都島区域に誕生している。
淀川大洪水を契機に大改修に取り組み、大きく近代化が進む
大政奉還後の明治以降、同区エリアは発展するも、1885年(明治18年)、淀川でそれまでにない洪水がおこり、これをきっかけに新淀川大規模計画が実施。枚方付近の川幅を広げ、平均幅750mの一直線の運河、新淀川を開削。同時に新淀川、旧淀川(大川)の分岐点に洗堰(せき)と毛馬閘門(こうもん)を築造。これによって相生町(片町)、野田町、網島町は地続きとなった。こうした治水事業は大阪の近代化に大きく貢献した。その後、急速な発展によって次第に農村地域から住宅地・工業地・商業地の混在化した市街地に変貌し、大阪市北部有数の産業地区となった。
戦後も人口増加が続き、繊維業や軽工業を中心に発展したが、1970年代以降、地価の高騰などによって大型の工場は郊外移転が進んだ。
前述したように、1980年代に「リバーサイドともぶち」やカネボウの工場跡地に大型高層住宅群「ベルマークシティ」の建設が始まったことをきっかけに、都心に近い交通の便の良い理想的な住宅地として見直され、マンション建設・市街地再開発が加速している。同区の人口は2004年に10万人の大台を回復し、現在も都島区は着実に発展し続けている。
また、中野町の市電都島車庫跡地および旧国鉄淀川貨物線跡地には、総合医療センターや保健福祉センター分館、スポーツセンターなどの公共施設が整備され、都心に近く居住環境に優れた街並みが誕生。
かつて京街道の起点に近く、交通の要衝として賑わった京橋地域は、JR環状線・学研都市線・東西線、京阪電鉄、地下鉄長堀鶴見緑地線が相互に連絡し、大阪東部の玄関口として、また商業の街として知られる。
著:吉田 恒道(公開日:2019.12.26)