大阪府大阪市大正区の特徴
― ニッポンの自治体 ―
かつて阪神工業地帯の中核、近年「昭和山」周辺で活性化が進む
大阪市大正区のエリアは、かつて姫島(現在の三軒家地域)と呼ばれていたが、後に豊臣家より、この島で港などの整備を行なった中村勘助にちなんで「勘助島」という名が与えられたとされる。
江戸時代には泉尾新田や恩加島新田など、町人請負新田が開発され、明治時代以降も大阪築港計画による鶴町や船町などの埋め立てが進む。大正時代の末期に現在の区域がほぼ確定した。同区の周囲を流れる木津川と尻無川は、江戸時代から大阪経済を支える水運の大動脈として賑わう。
大阪市・大正区のマンション
2018年に大阪府・大阪市大正区で販売された新築マンションは103戸で、相場価格は不明。中古マンション相場価格は2240万円~3080万円だ。
大阪市大正区の総面積は9.43平方キロメートル。2019年1月現在、大正区の人口は、6万5691人で、総世帯数は3万3832世帯だ。津川、尻無川、岩崎運河に囲まれている。区全体が河川に囲まれた島のような特徴的な形状となっている。
明治以降、近代産業・阪神工業地帯の中核地域として発展
明治以降、有名な大阪紡績(現在の東洋紡)の工場や日立造船所などの超大規模工場群が建設され、東洋のマンチェスターとも称される阪神工業地帯の中核地域として発展した。当時、これらの大工場に働き口を求めて沖縄から移住者が多く集まった。これが現在も続く「リトル沖縄」と呼ばれる沖縄出身者のコミュニティができあがった大きな要因だった。
大正区域は、大阪市の第1次大阪市域拡張時の1897年(明治30年)に大阪市に編入され、第1次修築事業を契機に、本格的な大阪港築港事業がはじまった。
日露戦争と第1次世界大戦が区域を変貌させる
1904年に始まった日露戦争と1914年に勃発する第1次世界大戦は、工業生産の増加にともなって大阪港の躍進と発展を促し、臨港地帯の港区とともに大正区域の姿を大きく変貌させることになった。西大阪の臨海地域は港・河川・運河などの水運と平坦で広大な土地に恵まれていた。そのため港区の境川から市岡付近に製造工業、尻無川の沿岸に木材・石油・石炭・薪炭・石材業、境川運河一帯に木材業が進出。
いっぽう大正区には、船町・鶴町・南恩加島・平尾付近にセメント・製鉄・造船・造機などの大工場、泉尾付近に船舶修繕・機械部品業、三軒家・難波島付近に造船業などの工場が進出し、港区と大正区は市内有数の工業地域としてめざましい発展を遂げた。
その後、大正区域は西区、港区を経て、1933年(昭和7年)10月1日大正区が誕生した。区名の由来は、同区北端にある「大正橋」にちなんでいる。
近年、活性化が進む、港の見える丘「昭和山」周辺の公共施設
同区中心部には、区のシンボルである標高33mの港の見える丘「昭和山」を中心とした11ヘクタールの広大な千島公園があり、四季折々の花と緑に囲まれ、区民に広く親しまれている。昭和山のふもとには区総合庁舎、体育館や多目的グラウンド、コミュニティセンター、そして図書館などの公共施設が配置されている。公園南側の複合施設「アゼリア大正」は、音楽ホール、スポーツセンターや温水プールなどを備え、区民の健康増進と文化交流及び区民スポーツ・コミュニティづくりの拠点として機能する。 区西部の北村地区には、総合医療施設、身体障害者・高齢者療護施設や知的障害者の更生施設などが展開され、医療・福祉エリアとして整備が進んでいる。
鉄道交通は、地下鉄「長堀鶴見緑地線」が1997年(平成9年)に「大正駅」まで延伸され、都心へのアクセスが格段にアップした。同地下鉄線は、鶴町地区まで延伸する計画がある。
隣接区との連絡橋として「千本松大橋」「新木津川大橋」「なみはや大橋」、さらに区内連絡橋として大正内港に架かる「千歳橋」が2003年(平成15年)に完成、道路交通網の充実も図られている。
また、大正区は河川や運河などの水路に囲まれた地域であるため公設の渡船が数多く運航している。いずれも歩行者と自転車のみが乗船でき、運賃は無料だ。港湾局による木津川渡以外は大阪市建設局による運航。大阪市内には全部で8カ所の公営渡船があるが、その内7カ所が大正区と関わる。
著:吉田 恒道(公開日:2019.12.26)