大阪府大東市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
江戸時代、治水目的の大和川のつけかえで変貌した農業都市
大阪府大東市は、大阪府の東部、河内地方のほぼ中央に位置する都市だ。東は豊かな自然に恵まれた「金剛生駒紀泉国定公園」を境に奈良県に、西は大阪市に接している。また、北は門真市、寝屋川市、四條畷市に南は東大阪市に、それぞれ接する。
大阪市内及び京都府南部方面へは、JR学研都市線で結ばれ、道路も市の中央を南北に外環状線(国道170号)、東西を府道大阪生駒線が走り、交通の便にもたいへん恵まれたエリアだ。
大阪府・大東市のマンション
2018年、大阪府・大東市で販売された新築マンションは203戸。同年、市内の中古マンション相場価格は1750万円~3430万円だった。
2019年1月現在、大東市の人口は、同市の発表によると12万759人で、総世帯数は5万6341世帯である。市域は東西7.5km、南北4.1kmで、総面積は18.27平方キロメートルだ。
歴史に名を残す市域は平安期に交通の要衝となる
大東市域で人々の集落が出来たのは、これまでの研究で縄文時代草創期のころであるされる。弥生時代に、河内湾周辺であった中垣内や野崎、北条あたりに比較的大きな集落が形成され、農耕を基盤とする集落が形成され始めた。
古墳時代には堂山古墳群を始め飯盛山麓一帯に多くの古墳が造営される。西大寺の荘園であった河内国更占(讃良)郡須濱庄(現在の中垣内の須波麻神社周辺)の記録が奈良時代の文献に登場する。当時の土地開発である条里制の名残は、現在でも中垣内から北条にかけて地名として残る。
平安時代になると整備された東高野街道沿いには集落が出来、奈良へ向かう中垣内越の道と交差する寺川や中垣内付近は交通の要衝として発展する。同時に、豊富な魚介、蓮など多くの自然の恵みがあり、現在の赤井付近には当時の皇室の食料を調達するための供御領が置かれた。また、平安時代の終わりごろまでには三箇、灰塚、氷野の集落が成立し、鎌倉時代になると北新町や御領、諸福などにも集落が形成された。
江戸時代、大和川のつけかえで商都大坂の重要な後背地となる
江戸時代中期(1704年)、河内平野の治水のためになされた大和川のつけかえが地域の姿を一変させる。それに伴って深野池、新開池の干拓、新田の造成行なわれ、以降の農業と農村の基礎をつくる。この大事業の結果、稲作を中心に木綿、菜種などの生産高は飛躍的に増大し、当時「天下の台所」として発展する商都大坂を支える重要な後背地となった。
明治に入り、1871年の廃藩置県で、現在の大東市は寝屋川以北の北西部が茨田郡4村、その他が讃良郡9村7新田に整理区分され、1888年市町村制公布で、改めて南郷、住道、四条の3村に統合され、更に大阪府の北河内郡設置(1896年)される。
1892年には、片町・四条畷間の鉄道である浪速鉄道の開通など、地域社会の近代化が促されます。1907年に浪速鉄道は国有鉄道片町線となり、舟運に変わる幹線として大阪都心部を結び、近郊都市化に貢献していく。
第二次世界大戦の前後して寝屋川沿いに工場進出が図られるようになる。都市化は緩やかでしたが、人口が3万人規模を超えた1956年(昭和31年)、2町1村の合併で大東市が誕生する。その後、阪奈道路、大阪中央・外環状線などの広域道路網や国鉄片町駅複線化の事業化が進む。時代は高度経済成長期と大阪都市圏の膨張期となり、大東市は住宅、工場や事業所の著しい進出によって急速な人口増加と都市化が進んだ。
以降、JR片町線の複線電化(1979年)、連続立体化(1989年)、「学研都市線」への位置付け変更、JR東西線との乗り入れ(1997年)や近畿自動車道、大阪外環状線の開通始め広域幹線道路の整備が進んだ。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)