大阪府大阪市浪速区の特徴
― ニッポンの自治体 ―
日本一小さな行政区「なにわ」は、江戸時代から栄えた大坂庶民の街
大阪市浪速区は1925年(大正14年)4月、南区(現在の中央区)から分区して誕生した行政区。その後、1943年(昭和18年)に南区・西区・天王寺区・西成区との間で区の境界を調整し、現在の区域となった。区の面積は4.39平方キロメートルと大阪市でもっとも狭く、日本でもいちばん狭い行政区でもある。
大阪市・浪速区のマンション
2018年に大阪府・大阪市浪速区で販売された新築マンションは1448戸で、相場価格は3908万円。中古マンション相場価格は2520万円~5320万円だった。
2019年1月現在、大阪市浪速区の人口は、6万7415人で、総世帯数は4万7769世帯。
江戸時代から大坂を支える商工業地域として発展
同区は大阪市のほぼ中央に位置し、堺、和泉、和歌山、神戸、奈良方面への交通要衝にあり、恵まれた立地条件を活かして、江戸期に入ってから中小の商工業地域として発達してきた。
なかでも日本橋から長町、今宮には旅籠、商家が建ち並び、大阪の南口として賑わいをみせるようになった。当時、生活物資の大量輸送の手段は水運であり、難波新川が開削されるとともに道頓堀川西部には諸国から集められた木材を扱う問屋が軒を並べるようになったとも。
それにともなって、難波新川東側には難波新地の茶屋街が賑わいを見せ、近郊農産物を扱う難波木津市場も水路・陸路の整備や人々の集まりによって成立したとされる。
明治以降、日本初の私鉄開業で都市整備が進んだ庶民の街
近代に入り1885年(明治18年)日本初の私鉄である阪堺鉄道が難波~大和川間に開通した。その後、1889年(明治22年)に、大阪鉄道が湊町~柏原間が開通、1900年(明治33年)に大阪高野鉄道が西道頓堀(現汐見橋)~堺東間も開通し、短期間で鉄道網の整備が進んだ。
また、明治後期から大正初期にかけて市電の敷設が進み、商工業も交通手段の拡充と発展にともなって大きく発展し、現浪速区の原形ができた。
1925年(大正14年)4月1日大阪市の第2次市域拡張により私たちの浪速区が誕生。区名の決定には、さまざま案が出たが、その昔、王仁(わに)が詠んだとされる「浪速津に 咲くやこの花 冬ごもり 今ははるべと 咲くやこの花」 の古歌から区名を引用し「浪速区」と命名した。
先の大戦末期、1945年(昭和20年)3月の大阪大空襲で、区域の93.4%が焼失し、焦土と化した。が、戦後いち早く復興に取りかかり、戦後復興土地区画整理事業は1991年(平成3年)3月末に完全に終えて、道路、街並みも整備され、整然とした都市となった。
戦後は日本橋(恵美須町)が、大空襲による焼け野原から、電気街として復興・繁栄した。が、産業構造の変化などに伴い中小企業や工場主体の地域の活力は落ち始めた。バブル期に同区内にあった大阪球場やクボタの工場跡地、湊町駅の貨物ターミナルなどが相次いで再開発されたが、バブル崩壊とともに停滞。2000年以降、撤退した工場跡地などで、超高層マンション群やオフィスビル、商業施設の開発が行なわれている。
同区は、長い歴史をもつ「大阪木津卸売市場」「でんでんタウン」など商業地域として発展した。また、大阪のシンボル「通天閣」「ジャンジャン横丁」がある新世界など、庶民の町としても親しまれている。
一方、関西国際空港や地方都市をつなぐ交通拠点と商業機能を持つ「大阪シティエアターミナル(OCAT)」、音楽ホール「なんばHatch」などから構成される「湊町リバープレイス」、都会のオアシスとしての魅力を備えた「なんばパークス」など、新たな施設が整備され、賑わいを見せている。
著:吉田 恒道(公開日:2019.12.26)