大阪府大阪市東成区の特徴
― ニッポンの自治体 ―
明治期より、モノづくりの街として発展した“松下電器”創業の地
明治期前半まで大阪市「東成区」エリアは、南北に流れる平野川・猫間川など河川の豊富な水資源に恵まれた農村、田園地帯だった。明治中期になって大坂造兵工廠、城東練兵場が設置され、西北部は住宅地や家内制手工業地となり、鶴橋地区では商業が発達、区西部の開発が進んだ。
大阪府・大阪市東成区のマンション
2018年に大阪府・大阪市東成区(ひがしなりく)で新築されたマンションは803戸で、相場価格は3099万円~3956万円。中古マンション相場価格は2380万円~4130万円である。
東成区は、大阪市東部に位置し、北は城東区、東は東大阪市、南は生野区、西は中央区および天王寺区に接する。2019年1月現在、東成区の人口は、8万3430人で、総世帯数は4万5825世帯。
同区面積は4.54平方キロメートルで、浪速区に次いで狭い行政区だ。そのため、人口密度は、城東区、西成区、阿倍野区に次いで大阪24区で4番目に高い。
同区の人口は、1960年をピークに減少傾向にあったが、1999年(平成11年)に底を打ち、近年増加傾向にある。
明治中期から鉄道開業で進んだ人口増、商工業発展
1895年(明治28年)、同区内に初の鉄道、城東線(現在のJR環状線)が開通し、玉造駅が開業、区の発展を支えるインフラとなった。
1914年(大正3年)に大軌電車(現在の近鉄)が開業、城東線と共に鉄道交通機関の便に恵まれた行政区となった。その結果、1909年(明治42年)にわずか約1万7千人だった当区エリアの人口は、15年後の1924年(大正13年)に10万人を突破した。
明治から大正時代に賭けて、大阪市内中心部の卸売問屋から発注が急増し、東成区域で製造工場や町工場が数多く創業。その産業分野は多岐にわたり、染織、ボタン、履物などから、ガラス製品、機械製造や金属加工などにおよんだ。また、文具や眼鏡枠、万年筆、ブラシなどを製造し、地域の有力産業として発展する。
1917年(大正6年)に22歳の若さで独立した松下幸之助氏は、当時の東成郡鶴橋町大字猪飼野1399-1400番地(現在の玉津2丁目)の借家で、改良ソケット作りを始めた。松下電器のはじまりである。その後、幸之助氏は福島区に移り、「松下電気器具製作所」を立ち上げ世界的な企業に発展させた。
人口増加により商工業が急速に発展、都市化が図られた。そして、1925年(大正14年)4月、それまでの「東成郡」は大阪市に編入され「東成区」として発足する。
昭和初期の東成区は広大で、1932年(昭和7年)に旭区、1943年(昭和18年)に生野区および城東区が分離独立した。
1945年(昭和20年)3月の大阪大空襲などで同区西部を中心に約6400戸が全焼し、2万人超の罹災者をだした。さらに、終戦前日の8月14日には、大阪砲兵工廠を中心に再度大空襲を受け「森の宮」駅周辺も甚大な被害を受けたとされる。
戦後の復興計画・事業で大きな成長を遂げた行政区
戦後の混乱のなか、大阪市戦災復興土地区画整理により、玉造地区から事業が着手され、戦後復興に向けた動きが活発化する。
1960年代から70年にかけて東成区は大きな成長を遂げ、1969年に区役所新庁舎が完成。
大阪市東成区は、静かな住宅街だが、区内には1000社以上もの小さな町工場がある。戦後、大阪の産業を担ってきた「モノづくり」の歴史を物語る工場が、今も町の風景に溶け込むように佇んでいる。そんな工場内では、機械製造、金属加工のほか、特殊な製品や暮らしに身近なアイテムまでさまざまな製品がつくられている。現在でも卓越した技術が生きる、「モノづくり」に携わる人々が働く街でもあるのだ。
地下鉄網も充実している。中央線「森の宮」~「深江橋」と千日前線「新深江」までが開通した。道路網も中央大通・阪神高速東大阪線の整備が実施され、同区発展に大きく貢献する。
現在、同区には東西に地下鉄2本、南北に地下鉄1本、市営バスも区内7路線、その他JR環状線、近鉄線があり、区民の重要な交通手段となっている。
2015年(平成27年)4月に、東成区は区制90周年を迎えた。
著:吉田 恒道(公開日:2019.12.26)